6章
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「じゃ、また夕方に」

 仕事を抜け出して来てくれたという母は七瀬と慶治をアパートの前に降ろすと、また職場へ戻っていった。

「ごめんな? うちのお母さん、いつもあんな感じやねん」

「なんで謝んだよ? 仲いいんだな、お母さんと」

七瀬が申し訳なさそうに言うも慶治は気にする素振りもなく返した。

「お父さんが亡くなってからはね。それまで、すっごいお父さんっ子やったから」

 そう言いながら、七瀬は古い二階建ての建物を見上げた。父が亡くなってから、母と二人で引っ越してきたアパート。

 ここの二階の2DKの部屋に七瀬は高校卒業まで暮らしていた。

「えっと、うち、ここなんやけど。上がってく?」

 慶治とは一緒の家で暮らしているけれど、この狭い部屋で二人きりになるのとは、ちょっとわけが違った。

急におどおどし出した七瀬を見て、慶治がおかしそうに笑う。

「お母さん帰ってくるまで、散歩でもするか」

「散歩?」

「そ、七瀬、どこか連れてってくれよ」

 七瀬の頭に、いつも父とスケッチブックを抱えて出かけた、懐かしい場所が次々と浮かんだ。


七瀬は慶治と一緒に大きな川の土手の上を歩いた。七瀬が幼い頃、いつも父と一緒に来た場所だ。

「ここでよく、お父さんと絵を描いてたの」

 立ち止まって、周りの景色を見回す。あたたかい、とまでは言えなかったが、風もなく日差しも柔らかかったので、寒くはなかった。

(そういえば、夏にここに来た時はずっと絵を描いていたっけなぁ。あれ)

「今思えば私、ファザコンってやつやったんかも」

 急にぽつりと七瀬が呟いた。

「お父さんに褒めてもらえるのが嬉しくて。そのために、絵を描いてたのかもしれん」

 すると隣に立つ慶治が少し笑って言った。

「だったら俺もファザコンだな。七瀬とは別の意味でのな」


 慶治が土手の途中の草の上に座った。

「俺もあの人のために絵を描いてたよ。大っ嫌いなはずなのにな。それでもあの人に褒めてもらいたくて。結局、未だ褒めてもらった試しはないんだけどな」

 七瀬はそんな慶治の姿を見下ろし、その隣に静かに座った。

 目の前をゆったりと川が流れる。かすかに吹いた風が頬に当たる。

 やがて、しばらく黙り込んでいた慶治が七瀬の隣でごろんと仰向けに寝転んだ。

「青いなぁ」

 慶治の声が耳に聞こえる。七瀬も思わず同じように仰向けになった。

 高く広がる澄んだ空。余計なものは何も見えない。ただ青い空だけが目に映る。

 慶治がそんな空に向かって腕を伸ばした。まるで絵筆を持つような仕草で、その手を右から左へ大きく動かす。

「あ」

 青い空にすうっと伸びた、一本の白い線。

「飛行機雲や」

 七瀬には慶治が満足そうに微笑むのがわかった。見えるはずのない白い雲を鮮やかに空に描いた。



鶉親方 ( 2017/12/17(日) 10:18 )