5章
29
 夏休み明けのキャンパスは、いつもより人で賑わっていた。明るい笑い声の中、一人で歩いていた七瀬に声がかかった。

「慶治は?」

 振り返ると佑美が機嫌悪そうに立っていた。

「休み中、電話もLINEもつながらないし、学校にも来てない。どういうこと?」

「あ、あの、慶治くん今、電話持ってないんで」

「ウソでしょ? そんなのありえないわ。私と連絡取れないようにしてるんじゃないの?」

「別にそういうわけじゃないと・・・」

 困っている七瀬の肩をぽんっと誰かが叩いた。

「七瀬。何やってんの? 行くよ」

「あっ、万理華」

 万理華が七瀬の手を引っ張って歩き出す。後ろから佑美の声が聞こえたけれど、振り返らずに人混みにまぎれた。




「ホント、あの人しつこいね」

 デッサン室の前まで来て、万理華が七瀬の手を離した。

「ま、私も人のこと言えないか」

 そう言って悪戯っぽく笑う万理華は、どこか吹っ切れたような顔つきをしていた。

 そんな万理華と一緒に七瀬は誰もいないデッサン室に入った。

「慶治、学校来てないの?」

「うん、なんかバイト始めたみたい」

「バイト?」

 万理華が不思議そうに首を傾げた。

「なんで? 学費も下宿代も父親が出してるんでしょ? あいつんちお金持ちだし、働く必要ないじゃん」

「でも、ほとんど毎日行ってる。それか部屋にこもって、絵描いてるかのどっちか」

 万理華がふうっとため息を吐く。そして、少し考えるような仕草の後、七瀬に向かって言った。

「奈々未姉さ、本気で家を出て行ったの。いつの間にか、住む所まで探したみたいで」

 どうやら、あの夜に慶治の言ったとおり、本当に出て行ってしまったようだ。

「奈々未姉が反抗したのなんて初めて。自分の将来は自分で決めるからほっといて、だなんて。だってずっと、親の言うことを聞くいい子ちゃんだったんだよ」

 万理華がそばにあった椅子に腰掛ける。

「でも、出て行った理由はそれだけじゃないと思うの。奈々未姉はきっと・・・私に気を使ったんだと思うんだよね」

「どう言うこと?」

 万理華が微かに笑って、七瀬を見る。

「奈々未姉さ、私が慶治のこと好きだって知ってたんじゃないかな。ま、私も一緒に暮らしたくないって思って避けてた時期もあったし」

「そんな・・・」

「でもね、やっぱりあの家に奈々未姉がいないとヘンなんだよね。だって私たちは、ずっと一緒にいたし、血の繋がりはないけど姉妹みたいなもんだし」

 そう言いながら、万理華が窓の外へ視線を移す。高くなった空に浮かぶのは秋の雲。

「こんな天気の良い日はさ、二人でよくスケッチに出かけたんだ。歳の離れた奈々未姉は、私だけの優しい先生みたいだった」

 七瀬に父との思い出があるように、きっと万理華にも奈々未との大切な思い出があるのだろう。

「奈々未姉、帰って来ないかな。帰って来て・・・慶治とくっついちゃえばいいのに」

 独り言のように呟いた後、万理華は七瀬を見て肩をすくめた。

「なんて、ヘンだね、私。あんなに別れて欲しいって願ってたくせにさ。でも、奈々未姉が私のために身を引こうと思ってるんだったら、そっちの方がもっとイヤだ」

 すっと立ち上がった万理華が窓辺へ向かい、ガラス窓をカラリと開けた。

 揺れるカーテン。吹き込む秋風。ほのかに漂ってくる金木犀の香り。

 窓辺に立った万理華の前より少し伸びた髪がさらりと揺れる。

「あーあ、どこかにいい男いないかなぁ。私だけを見てくれる、誠実な人がさ」

 万理華が笑いながらそう言って七瀬に振り向いた。

「七瀬は?」

「え?」

 呆然と立っていた七瀬は我に返ったように聞き返した。

「彼氏、作らないの?」

「私は・・・」

 七瀬は黙って俯いた。

「好きな人? いないの?」

(『好きな人』なんておらん)

「よし、今度二人で合コンにでも行ってみる?」

 万理華が楽しそうな顔でそんなことを言う。

「え、わ、私は・・・そういうのはちょっと苦手やし・・・」

「冗談だよ。私も実はそういうの嫌い」

 ふふっと笑った万理華を見て、七瀬も静かに笑い返した。



鶉親方 ( 2017/11/11(土) 01:08 )