28
「慶治くん」
眠れずに起きていた七瀬が二階へ上ってきた慶治に声をかけた。
「まだ起きてたのか?」
少し驚きながらも慶治は七瀬に問いかけた。
「うん」
「そっか」
慶治は疲れたような表情で七瀬を見て、ぽつりと呟いた。
「・・・あいつは?」
「夕方帰ったよ」
「あいつ・・・泣いてた?」
七瀬は慶治の顔を見た。慶治もじっと七瀬を見ている。
「泣いてたよ」
「だよな。俺、万理華のこと泣かせてばっかだ」
小さく笑った慶治は自分の部屋のドアを開けた。七瀬はそんな慶治を引き止めるように、一歩踏み出した。
「慶治くん。奈々未さんには―――」
七瀬はそこで言葉を止めた。
(この甘い香りは・・・)
いつか慶治のシャツから漂っていたあの香水の香りだ。
「会ってきたよ。奈々未と」
振り返った慶治はそう言った。
「落ち込んだ時に行きそうな場所はだいたい解ってるつもりだ」
七瀬が黙って慶治を見ると慶治はふっと笑う。
「けど『帰って』って突き放された。もう俺と会いたくないんだとさ」
「え、けど結婚やめたって」
「今は誰とも結婚したくないんだってさ。その相手とも・・・俺とも」
(奈々未さんは、慶治くんを選んだわけやなかった?)
「実家にもいたくないし、家を出るって。そしたらもう、二度と俺に会うこともないだろうって」
「ええの? それで?」
慶治の視線がすっと七瀬から外れた。
「ホンマに慶治くんは、それでええの?」
「いいんだよ。これで・・・俺じゃ、俺なんかじゃ、あいつのこと、幸せにしてやれない」
顔を背けた慶治の横顔を七瀬は見つめる。
(嘘や。これでええなんか思ってないくせに。慶治くんは、勇気がないだけや。大事な気持ちを伝える前に最初から諦めて逃げてるだけや)
「よ」
七瀬が何を言おう声を上げたタイミングで慶治が目の前のドアを開け、部屋の中へ入って行った。七瀬は吐きかけた言葉を飲み込みその背中を黙って見送るしかなかった。
(慶治くんは、万理華は、奈々未さんは、ななは・・・こんな気持ちのままで誰かを幸せにできる絵なんて、描けるのかな)
政江の言葉を思い返しながら七瀬も自分の部屋へと戻って行った。