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「大丈夫? 落ち着いた?」
リビングのソファーに座る万理華が七瀬の隣で小さく頷いた。
「ごめん、取り乱したりして。なんか恥ずかしいね、私」
七瀬は首を横に振った。万理華の震える手を自分の掌で包みながら。
(万理華はそんなに慶治くんのことを想ってたんや。自分で自分の体を傷つけてしまうほどに)
「私さ、ずっと慶治のことが好きだったの。奈々未姉と付き合ってる頃から」
七瀬の隣で万理華がぽつりぽつりと話し始める。
「二人が別れた時、チャンスだって思った。落ち込んだあいつを、慰めてあげられるのは私だけだってさ。私だったら誰かの言いなりで別れたりしないし。周りに何を言われても慶治のそばにいるよって」
俯きがちに万理華が小さく笑う。
「だけど・・・ダメだった。慶治は私を、奈々未姉の代わりに抱いてるだけだった」
万理華が顔を上げ、黙ったままの七瀬を見た。
「ホントあいつはサイテーな男。だけど私は、そんなサイテーな男を追いかけて同じ大学まで来たりして。バカみたいでしょ? あいつは最初から、私のことなんて見てないのに」
「万理華・・・」
「せめて、あいつの好きな子が七瀬だったらよかったのに」
ため息を一つ吐き万理華が小さく笑った。
「え?」
七瀬は驚きの余り万理華から手を離した。
「赤の他人の友達だったらそれで終わりだけどさ、奈々未姉は近すぎる存在だもん。キツイよ」
そう言って万理華は笑う。それは七瀬が今まで見てきたどの笑顔より寂しく、哀しい笑顔だった。
(万理華の想いは届かへん。それなら、慶治くんの想いは? 慶治くんの想いは誰に届くのやろか)
「はい、紅茶淹れたわよ。体があったまるからね」
政江が二人の前に紅茶を差し出した。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げた万理華に政江が問いかけた。
「あなたも七瀬ちゃんと同じ学部なの?」
「はい。でも私は入学した動機は不純ですけど」
万理華はまた自虐的に笑った。
「だけど、絵を描くことは好きなんでしょ?」
万理華が黙って頷いた。そんな万理華の手を政江がそっと握った。
「この手はね、鉛筆や絵筆を握る手なの。だから、こんな風にいじめちゃダメ」
「あっ・・・」
政江の手が万理華の傷付いた手を優しく擦った。
「慶治くんにも言ってるの。自分で自分を否定したらダメよって。あなたのこと、大事に思ってくれている人。必ずどこかにいるんだからね」
七瀬は政江の言葉を聞きながら目を閉じた。瞼の裏に浮かんだのは、亡くなった父の笑顔。
「この手で、誰かを幸せにできるような、素敵な絵を描いてちょうだいね」
政江の両手が万理華の手を優しく包み込む。万理華は涙を流しながら、ただ小さく頷いた。
万理華を駅まで送った後、七瀬は一人で坂道を登っていた。
夕方から夜に変わり始める時間。空の色も淡い色から濃い色へのグラデーション。
もうすぐ夜が来る。慶治はどこにいるんだろうか。
そしてその日、慶治が帰ってきたのは真夜中になってからだった。