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夕食は母の手料理を二人で食べた。政江の料理も、もちろん美味しいけれど、食べ慣れた母の料理はやっぱりひと味違った。
「七瀬?」
食事を終え、今日は特別と言って開けた缶ビールをちびちびと口にしている母が言った。
「なんな悩みとかあるんやったら、何でも言いや?」
「え?」
「あ、けど。お母さん絵とか描けんから、そんなん言われてもどうにもならんで」
そう言って母は缶をテーブルに置いて真っ直ぐな目で七瀬を見つめた。
「七瀬にはいっつも笑ってて欲しい思ってるねん。ま、お父さんとも約束したしな」
小さく笑うとまたビールに口を付け、仏壇の方へと目をやった。
「なな・・・笑ってなかった?」
母の目線に釣られるように七瀬も父の写真に目を向け、母に問いかけた。
「そんなんちゃうけど」
母が七瀬の前でにこりと微笑む。多分、何も言わなくても、きっと母にはわかってしまうんだろう。実家に帰って来ても、頭の中で思ってしまうことを。
「好きな人。・・・おるんちゃう?」
母の声が音のない部屋に響く。
「好きな人?」
「そ。なんとなく。お母さんの勘やけど」
母が七瀬に笑いかけ、またビールに口を付けた。
「ようわからん」
頭に浮かぶのはあの人のこと。だけどそれが"好き"なのかどうかは七瀬自身にもわからない。
十九歳にもなって。中学生みたいだと、笑ってしまいそうだけど。それが七瀬の答えだった。
「まぁ、ゆっくり考えればええんちゃうかな」
目を伏せ考える七瀬の耳に母の声が聞こえる。
「七瀬はお父さんに似てのんびり屋さんやからね。けど、それは悪いことちゃうよ? 七瀬には七瀬のペースがある。焦らんと進めばええんやで。お父さんもきっとそう言うわ」
七瀬はもう一度、父の写真に目を移す。父は昔、七瀬の描いた絵を褒めてくれた時と同じ笑顔で今の七瀬を見つめてくれていた。
実家に一週間ほどいた後、七瀬は来た時と同じように駅まで母に送ってもらった。
「まだ、こっちおればええのに」
「課題がいっぱいあるねん。ななはのんびり屋さんやし、早目にやらんと」
七瀬は母に笑いかけ、車を降りた。
「そ。じゃ体に気つけて」
「うん。お母さんも」
手を振って母と別れる。別に会えなくなる訳じゃない。だから、このくらいさっぱりした別れでいい。
帰りの新幹線の中、七瀬は大阪へ来る前に東京で買った美術雑誌を広げた。
そこに掲載されている一枚の風景画に目が止まった。
繊細な色を丁寧に重ね合わせて描かれているその絵は、最近開催された美術展で賞を取った作品だ。
作者の名前は椎名慶治。
確かなデッサン力も、味のある色合いも、高く評価されていた。
「これが慶治くんの絵」
それは七瀬には到底描くことのできない、素晴らしいものだった。
(けど・・・)
何かが違う。
(慶治の描く絵は、どんなに上手くても心に響かへん)
七瀬は雑誌を閉じ、シートに身を預けた。東京へ向かう窓の外は、もう日が暮れかけていた。