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「七瀬! こっち、こっち!」
七瀬が地元の駅に降り立つと、ロータリーに停まった軽自動車から母が出てきて手を振った。
「お母さん!」
七瀬も思わず口元を緩ませ、そんな母に駆け寄る。
「久しぶり! 大きなった?」
「そんなわけないやん。お母さんこそ、ちょっと痩せたんちゃう?」
「絶賛ダイエット中。三キロ減やで」
ふふっといたずらっぽく笑う母の表情は数か月前と変わってない。明るくて元気な人。引っ込み思案な七瀬とは違っていた。
「ごめんな? 仕事中やったんちゃうん?」
運転席に座る母は仕事先の制服を着ていた。
「うん、今日は早めに上がらせてもろてん。娘が帰ってくる言うたら、もう帰ってええよって。ホンマ、理解ある職場で助かるわぁ」
あっけらかんとそう言った母だが、父が亡くなってからすごく苦労していたことを七瀬も知っていた。
駅から実家までは車で20分ほどかかる。バスも通っているけれど、何しろ本数が少ないので迎えに来てくれて助かっていた。
「で? 学校はどない? 楽しい?」
「うーん。課題こなすのに精一杯って感じかな」
「サークルとか入らんの? 彼氏は? 課題は大事やけど、せっかくの大学生活なんやし、楽しまな損やで?」
ハンドルを握りながら母が笑う。そして、前を見たまま少し目を細めてこう呟いた。
「ま、お父さんもきっと喜んでるわ。七瀬が好きなことを続けてくれて」
「うん。ななもそう思う」
揺れる車中。七瀬は車窓に流れる見慣れた風景に父の面影を感じた。
「政江さんちはどう? 迷惑かけてない?」
母の声に七瀬の頭に慶治の姿が浮かぶ。きっと母は知らない。あの家に男の人も住んでいることは。
「うん、大丈夫。おばさんすごくよくしてくれてる」
「そう。後で電話してみるわ」
窓の外に緑が増えた。山と川に囲まれたのどかな町で七瀬は暮らしていた。父と母の、暖かな愛情に包まれて。
明くる朝、母が仕事へ出かけると七瀬はスケッチブックを持って家を出た。むっとする空気が肌にまとわりつき、頭の上からは蝉の合唱が降り注ぐ。
七瀬は麦わら帽子を被り直すと、いつも父と行っていた広い川原へ足を向けた。
土手の上の大きな木の下に腰をおろす。朝から気温はぐんぐんと上昇中だけど、木陰はまだ大丈夫だった。川からの風に吹かれながら、七瀬は膝の上でスケッチブックを広げ、遠くを眺めた。
緑の山々はあの頃と変わることなく、この町を囲むように連なっている。小さい頃、描きたいものはたくさんあった。だけどよく描いていたものは、身近にある花や虫。もっと遠くの山や空を見ることは少なかったような気がした。
少し大人になったからか。子どもの頃よりさらに、遠くまで見ることができるようになっていた。その代わり、見たくないものまで、見えるようになってしまったのもまた事実。
七瀬は鉛筆をスケッチブックに走らせる。描き始めたらもう指先が止まらなくなる。
(もしも、慶治くんがここにおったら・・・あの人は何を見て、何を描くんやろ)
そんなことをふと真夏の空の下で考えていた。
町に流れる昼のチャイムが耳に聞こえた。時間を忘れて描き続けていたなんて、いつ以来だろうか。頭の上に昇りきった太陽が七瀬を照りつける。
「お腹すいたなぁ」
スケッチブックを閉じ、七瀬はぽつりと呟いた。
――じゃあそろそろ食べよか? お母さんのサンドイッチ――
そう言って笑う父の顔を思い出す。父は七瀬と出かける時はいつも母が作って持たせてくれたサンドイッチを嬉しそうに食べていた。
「お父さん・・・」
突然、七瀬の目から涙が止めどなく溢れ、七瀬は膝の上のスケッチブックに顔を押し付けた。
いつも絵を褒めてくれたお父さん。何をするにも自信が持てなかった七瀬に、たった一つの希望をくれた。
――七瀬の好きなことをすればええ――
顔を上げて広い空を見る。どこまでも続く澄んだ青。そこに筆で描いたような、一本の白い飛行機雲。足元に茂るのは緑の草。風に揺れる紫色の花。川原を走り回る子どもたちの色とりどりの服。
この世界は色で溢れている。そんな当たり前のことを今、慶治に伝えたい。七瀬はそう思った。
慶治とはあの夜以来、会っていなかった。万理華とは学校で会ったけど、あの話はしていない。
――なのに、あいつは何も解ってないの。いつまでも追いかけて、こそこそ会おうとする――
――これで満足なんだろ? お前も万理華も――
二人の声が頭の中で反芻した。慶治は忘れることができるのだろうか。来年結婚するという、彼女のことを。
少し考えて七瀬は首を振る。
その前にちゃんと伝えなくてはいけないことがあるはずだ。慶治は本当に好きな彼女に。