3章
21
 椅子に座ったままの七瀬を慶治はじっと見つめながら、その指先を七瀬の頬に滑らせた。

「逃げないのか?」

 小さく笑った慶治が少し腰を落として七瀬に顔を近づけた。そして、唇を七瀬の口元に押し付けた。

(どないしたら、どないしたら分かってもらえる?)

 七瀬のため、日当たりの良い部屋を譲ってくれた慶治。

 入学式の日、桜の舞い散る坂道を一緒に歩いてくれた慶治。

 見せたいものがあると、白く輝く月を教えてくれた慶治。

(慶治くんは悪い人やない)

 七瀬はそう信じていた。

「この前・・・慶治くんの描いた絵、見た」

 唇を離した慶治が七瀬の顔を見る。

「けど、どれも心がなかった。慶治くんの絵には心が込もってないんよ。ちゃんと生きようとしてないから」

「お前・・・」

 慶治の指が七瀬の頬から離れた。

「いつから、そんな偉そうなこと言えるようになったんだ?」

 椅子に座る七瀬を慶治が睨みつけるように見下ろす。

(怖い)

 本当は怖くてすぐにでも逃げ出したかった。

(私が逃げたらアカン)



「慶治くん。私は奈々未さんちゃうよ?」

 誰もいないデッサン室で哀しいほど愛おしい目で慶治くんが描いていた、スケッチブックの中の奈々未さんはいない。

「万理華も、佑美さんも・・・みんな奈々未さんやないんよ」

「黙れ!」

 七瀬は腕を強く掴まれ、そのまま床の上に強引に押し倒された。

「いたっ・・・」

「いい加減にしろよ、お前。何にも知らないくせに知った口叩いてんじゃねぇぞ!」

「し、知らんよ。知らんけど・・・慶治くんが間違っているってことはわかる」

 慶治は七瀬を睨みつけ、片手で七瀬の両腕を頭の上に強く床に押し付け、馬乗り状態となった。 

 その時、恐怖感と痛さで顔を歪ませる七瀬の耳に機械的な音が聞こえた。

 電話の着信音。それは慶治のポケットから床に落ちたスマートフォンから流れていた。

 七瀬は咄嗟に画面を見た。そこに表示されている"奈々未"という文字。

 七瀬のTシャツの裾を掴む慶治の手が止まる。慶治もまたその画面を見つめていた。


 着信音は鳴り止むことない。七瀬はその音だけに耳を傾けていた。

 だけど次の瞬間、慶治はそれを無造作に掴むと、床に叩きつけるように思い切り投げつけた。

「きゃっ」

 七瀬は思わず目を瞑り声を上げた。鳴り続いていた電話の音が止まる。

「これでいいんだろ?」

 床に仰向けに倒されたまま、静かに目を開けた七瀬の目に慶治の顔が見えた。

「これで満足なんだろ? お前も万理華も」

 慶治が七瀬から目線を動かした。七瀬はただ黙ってそんな慶治を見つめる。

 窓辺の風鈴がまた音を立てた。慶治は立ち上がって部屋を出て行く。

 一人残された七瀬はそのまま両手で顔を覆った。


 冷たい床の上。起き上がることも出来ず、七瀬はただ、声を押し殺して泣いた。



鶉親方 ( 2017/10/27(金) 00:13 )