20
7月になると雨の日よりも晴れて蒸し暑い日のほうが多くなった。七瀬はTシャツを頭から被って下へ降りた。
「おはよう。七瀬ちゃん」
政江はいつも笑顔で七瀬を迎えてくれた。だけど、七瀬はずっと慶治のことを避けていた。
学校ではもちろん、家でもその気配を感じると場所を移動し慶治と会わないようにしていた。
しかし、もうすぐ長い夏休みが始まる。そうなってしまえば、嫌でも慶治と顔を合わせてしまう可能性が高くなる。
(夏休みになったら、実家に帰ろう。お母さんにも会いたいし)
そんなことを考えていたある夜、七瀬は慶治と顔を合わせることになってしまった。
「一人か?」
ダイニングで夕食を食べている七瀬は突然慶治に声をかけられた。
最近、慶治の帰りは遅かったし、夕食もほとんど家で食べていなかったから、七瀬はすっかり油断していた。
「あ、うん・・・おばさん、さっき出かけた。学生時代の同窓会とかで」
「ふぅん」
慶治は冷蔵庫から麦茶を取り出すとグラスを持って七瀬の前に腰かけた。
七瀬は箸を持つ手を止め、平然とした顔つきで麦茶を注いでいる慶治を見る。
この人はどう思っているんだろうかと。
(私とキスしたの、寝惚けてた?
他の人と間違えた? ううん、多分違うはず)
慶治は七瀬にキスをした。だけど、慶治の心は別のところにあった。
「なぁ、慶治くん」
箸を置いて真っ直ぐ慶治を見る。開いた窓から夏の夜風が吹き込んでガラスの風鈴がチリンと音を立てた。
「なんで・・・あんなことしたん?」
慶治は七瀬を見ないまま麦茶を一口飲んでグラスを置いた。
「教えてやったんだよ。男の部屋に無防備で入るとどうなるかをな。あれで済んでよかったと思えよ」
七瀬はテーブルの上の両手をぎゅっと握った。慶治はそばにあったリモコンを手に取るとテレビの電源を入れた。静かだった部屋に、お笑い番組の笑い声が不自然に響く。
「慶治くんは」
体が震えるのはどうしてだろうか。悔しいからか、それとも哀しいからか、七瀬には分からない。
「慶治くんは好きでもない人と、あんなこと出来るん?」
慶治が首を回して七瀬を見る。
「万理華が、友達が言うてた。慶治くんは人の気持ち、全然考えてないって」
「万理華? あいつ、うちの学校にいんのかよ?」
「そう。同じ専攻」
「マジかよ? あいつ何考えてんだよ。バカじゃねぇの?」
そう言って慶治が可笑しそうに笑い出した。
「なんで? なんでそんなこと言うん? 私、万理華から全部聞いてるで。慶治くんと奈々未さんのこととか」
「へぇ」
慶治の短く低い声に空気がピリついた気がした。
「それなら、俺と万理華のことは?」
「え?」
言葉を止めた七瀬に慶治が続けた。
「聞いてないんだろ? 俺が万理華と寝たこと」
「う、嘘や」
「嘘じゃねぇよ。俺はな、好きでもない女と出来るんだよ。そういうことを。な」
七瀬は息を飲んで慶治を見た。慶治はふっと口元を緩ませ、リモコンでテレビを消して立ち上がった。
「試してみるか?」
「い、いやや・・・」
本気ではないと思う。それでも、七瀬は震えて動けない。
慶治がテーブルを回ってこちら側へ来た。
逃げればいいのに。椅子から立ち上がって、この部屋を飛び出して、慶治の前から逃げればいいのに七瀬は動けないでいた。
だけどきっと、動いたとしても何も変わらない。