2章
「ねぇ、あの椎名さんと一緒に住んでるってホントなの?」

 次の日の昼、学食で怜奈を待っていた七瀬に見知らぬ女子たちが集まってきた。驚いて顔を上げた七瀬の目に『ごめんね』と言う感じで両手を合わせ、舌を出している怜奈の姿が映った。

「あ、私たち、怜奈と同じ油画なんだけど」

「日本画の子で、あの椎名先輩と一緒に住んでる子がいるって聞いたから」

「一緒に住んでる言うか・・・ホンマにそんなんやなくて」

(なんで、喋っちゃったんやろ、怜奈ちゃん)

 口籠りながら七瀬がチラリと怜奈の方を見ると怜奈はもう七瀬の方を見ておらず、他の子とのおしゃべりに夢中になっていた。


 七瀬の周りに集まってきた女子たちは結局、騒ぐだけ騒いで怜奈と一緒に行ってしまった。七瀬は一人残された学食で食事をし、学生たちで賑わっている外へ出た。


 春風の吹くキャンパス内を歩きながら、七瀬はふとあの日のことを思い出した。

 あの、今は使われていないデッサン室。


 七瀬は足を止めて考えた。午後の実習まではまだ少し時間がある。そう思うと足は自然とあのデッサン室へと向かっていた。



 記憶を辿りながら、なんとか目的の場所までたどり着いた。人気のないこの建物は今日もやっぱり静まり返っている。

 いるはずなんてないのに七瀬はそっと部屋の中を覗いた。

(もし、あの人と会えたとして、私はどないしたいんやろ?)

 話しかける勇気なんてきっとないはずだった。


 北側にあるその部屋は真昼だというのに薄暗い。そして、案の定人影はなかった。








 その日最後の実習が終わると学生たちは何人かのグループに分かれ、ワイワイと部屋を出て行った。大きな窓のある新しい棟のデッサン室。ここに残って課題を続けているのは七瀬を含めて数人だけ。

 提出期限はまだ先だったけど、七瀬は自分の作業の遅さは知っている。それに家に帰ったところですることは特にない。そう思うともう少しこの場所で絵を描いていたかった。




「まだ帰らないの?」

 ふいに声をかけられて七瀬は顔を上げる。気がつくと部屋にはもう七瀬と目の前に立つ女の子しかいない。

「あ、えっと・・・もう少し」

「そう。じゃ、私は先に帰るけど」

 そう言った彼女が七瀬の描いている絵をちらりと見る。七瀬は恥ずかしくなり、思わず俯いてしまった。

「西野七瀬さんでしょ?」

「え?」


 ふいに名を呼ばれ、七瀬は顔を上げた。

「私、伊藤万理華。オリテンの時の席、近かったんだけど覚えてないかな?」

「ごめんなさい。覚えてないです」

 万理華と名乗った子が七瀬の前でふっと笑う。ショートカットが似合う意志の強そうな丸顔をした子。

 それにしても席が近かったというだけで、名前まで覚えてくれていたのだろうか。すると万理華は七瀬の耳元へすっと顔を近づけ言った。

「椎名慶治には関わらない方がいいよ。あいつはひどいヤツだから」

 七瀬は驚いて万理華の顔を見た。万理華はもう一度七瀬に笑いかけると、部屋を出て行った。





(なんなんやろか)

 たまたま下宿先が一緒だっただけで、完全にあの人に振り回されてる気がした。

 思いきってあの家を出て、アパートを借りてしまおうかなんて提案も頭を過った。

 いや、実際問題そんな余裕なんて七瀬の実家にはない。

 
『学費の面は心配せんでも大丈夫。七瀬は七瀬の好きなことすればええから。きっとお父さんもそれを願っているはず』


 美大を受けるか迷っていた時、母が七瀬に言ってくれた言葉だ。父が亡くなった後、母が苦労して七瀬を育ててくれたことはよく理解している。だから母のためにも、父のためにも、くだらないことで悩んでる場合ではない。

「うん。頑張らな」

 もう一度鉛筆を持ち、目の前のモチーフを見つめる。自分に飛び抜けた才能がないことは、十分承知している。だけど、それ以上に絵を描くことが好きだった。何のとりえもない、何事にも自信が持てないそんな自分の背中を両親がそっと押してくれたから。



鶉親方 ( 2017/09/26(火) 23:28 )