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入学式の日は朝から天気が良く心地よい暖かな風が吹いていた。
「あの、ほんとにすみません」
政江に見送られて家を出て、慶治と並んで歩きながら七瀬が呟いた。
「別にいいさ。どうせヒマだしな」
「すみません」
もう一度小さく謝る七瀬を見て、慶治が笑う。
「そういや、あんた初めて家に来た時、迷子になりかけたんだってな?」
「えっ」
まさかの言葉に七瀬は目を丸くした。その事実を知るのは政江だけのはずだった。だが、慶治も知っていると言うことは何かの拍子に政江が話してしまったに他ならない。
「駅から家までってほぼ真っ直ぐだろ? どうやったら迷えるんだよ」
(そ、そんなこと言われても、私だって迷いたくて迷ったんちゃうし・・・)
言葉にならない言葉を心の中だけで返し、七瀬は黙って俯いた。
「ま、そんなんじゃきっと、大学までも辿り着けないって思ってさ」
隣で笑っている慶治の横顔をちらりと見る。その向こうには坂道に沿って並んでいる桜の木々。
初めてこの道を歩いた時は周りの景色を眺める余裕もなく、気付けなかったが満開を過ぎた桜の花が七瀬たちの上からはらはらと舞い落ちる。
「オープンキャンパスに行った時も―――」
そんな淡い色の中、七瀬の頭に浮かんだのはあの日の光景だった。
「学校の中で迷っちゃって・・・」
「ん? あぁ、前のデッサン室の話か?」
七瀬は思い切って顔を上げ、こちらを向いた慶治の顔をじっと見た。違うとその口から言われてからも、実はまだ思っていた。あのデッサン室の彼は、やっぱり慶治じゃなかったのかと。
「もしかしてあんた、その男に惚れたか?」
「ちがっ!」
思わず大きな声が出て、七瀬は慌てて口元を覆った。
「ち、違います」
「なんだ、つまんね。そいつのこと、探してやろうかと思ってたのにな」
(どこまで本気なんかな、それ)
ぼんやりと考えながら七瀬たちは坂道を下る。いつの間にか人が多くなってきたと思ったら、大学の門に着いていた。
「ここでいいか?」
「は、はい。ありがとうございました」
門の前で立ち止まり、七瀬はぺこりと頭を下げた。結局、スーパーも本屋もいつの間にか通り過ぎていた。男の人と並んで歩くなんて初めての経験で緊張してしまったからだろう。
「じゃあな」
軽く手を上げて立ち去ろうとした慶治に女の人が駆け寄ってきた。
「慶治? どうしたの? こんな所で」
「佑美」
七瀬はその場に立ち止まったまま、佑美と呼ばれた人の姿をぼんやりと見つめた。春色の服をさらりと着こなした綺麗な人。
七瀬のようなスーツ姿ではないし、気軽に慶治に話しかけている様子を見ると、この学校の先輩なんだろうか。
「うん? ま、あれだ。ちょっと迷子の道案内をな」
「なにそれ」
くすっと笑った佑美が七瀬のことを見る。そしてもう一度、声を出さずに口元を緩ませた。
「で、お前こそ何やってたんだよ?」
「私は入学式の手伝い。もう終わったけどね。この後ヒマ? ご飯でも食べにいかない?」
「別にいいけど」
佑美の手がさりげなく慶治の腕に回った。
(彼女さん・・・かな)
二人の姿を見つめながら、七瀬は思った。
ふと、周りを見回すと歩く人たちの足取りが早くなっていた。時計を見るともうギリギリの時間だった。慌てて立ち去ろうとする七瀬に慶治の声がかかった。
「七瀬!」
振り返った七瀬の目に映ったのは、春風に舞う桜の花びら。薄紅色に染まる景色の中で七瀬を見ている慶治と目が合う。
「帰りは一人で帰れるな?」
「は、はい。大丈夫です」
「迷子になるなよ」
隣で腕を組んでいる佑美が眉をひそめて慶治を見上げた。
慶治は可笑しそうに笑い、七瀬に背を向けて歩き出した。
「え、ちょっと慶治、誰なの? あの子」
佑美はちらりと七瀬を振り返った後、ぷいっと顔を背け慶治と一緒に行ってしまった。
(なんか・・・ヘンに誤解されたら嫌やな。学校ではあんまりあの人に関わんようにせなな。政江おばさんもハンサムくん言うてたし。きっと女の友達もたくさんおるやろし、私なんかとは別世界の人なんや)
人混みの中に二人の姿が消えてしまうと七瀬は振り返り、キャンパスへ歩み出した。