2章
12
 青空の広がる日曜日。七瀬は政江の家の片づけを手伝っていた。


「もうね、ずっと使ってなかったのよ、あの部屋」

 政江の言う"あの部屋"を七瀬は初めて見せてもらうことになった。一階のリビングから少し距離のある離れのような部屋。

 庭の緑に囲まれた、かつてアトリエだったというその部屋は今はただの物置になっている。

「昔はね、ここに近所の子どもたちを集めて絵画教室を開いていたんだけどね」

 政江は懐かしそうに周りを見回す。実は政江も絵を描く人で七瀬の父も小さい頃、そんな政江に絵を習っていた。

「おばさんはもう描かないの?」

「そうねぇ」

 政江はそばにあった、どこかの土産のような謎めいた置物の埃を払いながら呟く。

「私はもういいかな。私の代わりに、慶治くんと七瀬ちゃんの二人が描いてくれるから」

 政江がそう言って幸せそうに微笑む。だけど七瀬はなんだか申し訳ない気持ちになっていた。

「でも私、絵上手くない」

 前から感じていたことだったが、それは美大に通うようになってはっきり痛感した。

 周りの人の描く絵がどれも自分の物より上手く見える。父はいつも褒めてくれたけど、所詮私はただの"絵を描くのが好きな子"なだけなんじゃないかと。

 七瀬は埃を被った古いキャンバスを手に取り呟いた。

「慶治くんみたいに上手かったらいいんやけどな・・・」

 そこまで言って気が付いた。七瀬はまだ慶治の絵を見たことがなかった。周りの噂ばかり耳に入り、自分の目で確かめたことは一度もなかった。


「ねぇ、おばさん。おばさんは慶治くんの絵、見たことある?」

「もちろん、あるわよ」

 七瀬は真っ直ぐに政江を見た。

「昔、慶治くんに絵を教えていたことがあったのよ。あの子がまだ小学生の頃だったわね」

「え・・・」

「まぁ、教えることなんて何にもないんだけどね。この部屋でやってた絵画教室に慶治くんも来ていたことがあったの」

「そう、やったんや」

 七瀬は知らなかった。二人にそんな昔からの繋がりがあっただなんて。

「でも、慶治くんのお父さんって、あの椎名慶雅さんでしょ?」

「そうよ。だけど、そのお父さんは絵を教えたりしないの。ただ描き上がった作品を見て批評するだけ」

「批評?」

 政江は手に持っていた置物を値踏みするように見つめてからゴミ袋へ突っ込んだ。

「慶治くんのお父さんは厳しい人でね。『お前にはこんな下手くそな絵しか描けないのか』って、描いた絵を破り捨てたりしちゃうの。それも、目の前でね」

 七瀬は自分の幼かった頃のことを思い出した。父はいつも笑顔で七瀬の絵を褒めてくれた。七瀬の絵を見ると幸せになれると褒めてくれた。


「だからね、私はいつも慶治くんに言ってたのよ。絵には上手いも下手もないんだよ。自分の描きたいものを描きたいように描けばいいんだからね。って」

 その言葉は七瀬の父がいつも言っていた言葉だった。七瀬の父もまた政江から、その言葉を聞いたのだろう。

 そして七瀬はそんな父に見守られながら大きくなった。


「でもそんな私の素人考えは、お父さんには伝わらなかったんでしょうね。慶治くん、一年もしないうちにここへは来なくなって、どこか有名な先生のスクールへ通い始めたって聞いたわ」

 政江は手に取ったキャンバスの埃を払う。絵画教室の生徒の絵なのだろうか。頼りない線で描かれたどこかの風景が描きかけのまま終わっている。

「けど、それで良かったのかも知れないわね。それからすぐに慶治くんは賞をもらってた。お父さんから譲り受けた才能もあったんだろうけど」

「私はそれでいいと思わない」

 政江が手を止めて七瀬を見た。

「それで慶治くんが幸せならいいけど。きっと慶治くんは幸せちゃうと思う」

 そこまで言って七瀬は口を閉じる。

(何言ってるんやろ。慶治くんのことなんて、何にも知らんはずなやのに)


「そうよねぇ」

 政江が静かに微笑んで七瀬に言った。

「幸せだったら、きっとこんな家にいないわね」

「慶治くん、政江さんに拾ってもらったって言ってたよ」

「そうよ。小学生以来会っていなかったのに、突然二年前に訪ねてきたの。雨の中、びしょ濡れになってね。『どうしたの?』って聞いたら『行く所がない』って言うじゃない。しょうがないから『だったらここにいれば?』って。それからずっといるのよ、あの子」

 政江がそう言ってふふっと笑う。

「お父さんと喧嘩でもしたのかしらねぇ。でも、学費はお父さんが払ってるみたいだし、ちゃんと学校へも行ってるから、親子の縁は切れてないんでしょうね? うちに下宿代も入れてくれてるし」

「そうなんや」

 父親に反発して家を出て、でもその父親のお金で学校へ行っている。結局、それで上手くいっているのかも知れない。本当に父親のことを恨んでいるのなら、そのお金で学校へなんて行くはずがない。



「あらあら」

 政江が一枚の絵を手に取った。

「これ、慶治くんの描いた絵よ。小学生の頃に」

「え?」

 政江の手から七瀬が絵を受け取った。

「これ、慶治くんが?」

「そう。好きなものを描いていいよって言った時のね。こんなの絶対お父さんには見せないでって言われて、ここにしまっておいたの。すっかり忘れてたわ」

 七瀬はじっとその絵を見つめた。一見それは"絵"というよりも、ただ色のついた紙のようだった。画用紙一面に水彩絵の具で塗られた青色。だけどよく見ると、微妙に色の濃さが違っている。

 淡く柔らかな青から深く強い青へ。色と色が少しずつ重なり合い、一つの風景になっている。

 夜の始まりの空の色。でもそれ以外は何も描かれていない。

(・・・月。そうや、ここに月を描いたらええんや。白く輝く丸い月を)

「それね、あとで慶治くんに渡してくれる?」

「え、私が?」

「お願いね」

 政江がにっこり葵に笑いかけた。七瀬は目を落とし、もう一度紙の中の青い夜空を見つめた。



鶉親方 ( 2017/10/03(火) 00:10 )