03
沈黙が辺りを包む。見つめている先、腕の中の彼女がわずかに震えた。
「・・・手をね」
風の音に消えてしまうような小さな声が腕の中から漏れてきた。
「手?」
彼女がどこか恥ずかしそうに小さく頷いた。わずかな沈黙の後に、ようやく続きが小さく紡がれる。
「繋げるかな、って」
話が見えない。なぜ海で手を繋ぐという発想になるのか。海に来なければいけない理由が見つからない。
「参ったね。君の考えが分からないのは、俺がおじさんだからかな?」
ため息を吐くと彼女が振り返って俺を見上げてくる。その顔が今にも泣きそうで俺は苦笑いを浮かべた。
(なんで、こんなにかわいいのかね)
「で、なんで海?」
「寒かったら、手を繋いでもらえるかなって・・・・・・ごめんなさい」
泣きそうな声で見上げてくる視線が反らされた。
「ふっ」
笑うところではないのは分かっていたが、思わず吹き出してしまった。
その発想はジェネレーションギャップか、それとも経験の差か、何にせよ飛躍しすぎだ。
「意味が分かんないよね。そんな事のために、俺はこの寒い海にまで連れてこられたの?」
耐えきれずに笑い出してしまう。
彼女以外の他の誰かがやれば、間違いなく苛立っている。なのに、これがかわいいとか思ってしまうのは重傷過ぎるのだろうか。
手を繋ぎたくて無茶ぶりとか、そんなに俺を好きなのかと思うとうれしいと思うのは、あんまりだろう。
手を繋ぎたいと言われたことがこんなに幸せとか、どんだけこの子が好きなんだ。
考えれば考えるほどおかしくて笑いがこみ上げてくる。
彼女を好きな自分が滑稽で、たまらなく心地良い。
(ここまでかわいいとか、卑怯だ。こんな子供に振り回されて、俺、バカだろ?)
「何でそんな事考えた?」
不安そうな顔で見上げてくる彼女に尋ねる。
彼女の目に俺はどう映っているのだろう。言葉は責めているのに、笑っている俺に戸惑っているようだった。俺の言葉が彼女の不安をさらに強めているらしいのは感じるが、それをぬぐってやる気にはなれなかった。
(俺ばっかりはフェアじゃないよな? お前も悩め)
こんな子供に振り回されたまんまでたまるかというプライドと、子供じみた意地悪心だった。
「だ、だから、手を」
「そうじゃなくて。きっかけは?
そんな事考えたのはなんで?」
のぞき込むように見つめると、情けない顔をした彼女が困っていた。
「言わないと、ダメ?」
「ダ〜メ」
即答すると彼女は俯いて言葉をつまらせた。
「この前ね・・・女の人と歩いてたの、見た」
ようやく出てきた言葉が思いがけない内容で一瞬ひるむ。そんな事あったっけな?
「俺?」
彼女が頷いた。
「腕、組んでた。綺麗な人と」
その言葉にそういえばと、思い当たった。
「妬いた?」
彼女から見えないのを良い事ににやにやと笑いながら耳元で囁く。
(嫉妬されてうれしいとか、どうかしてるよな。前までは女の嫉妬なんて、うざったいと思っていたのに)
「あの人、誰?」
「高校時代の後輩。久しぶりに会ってな。男女関係なく誰の腕にでもぶら下がるのが趣味な人妻だ」
「そんな趣味の人、いるの?」
「世間は広いんだよ」
不審そうな声に俺は笑う。俺もあいつ以外にそんな事するヤツは知らないけど。
「ま、それに対抗して、冬の夜の海にまで引っ張り出して手を繋ぐ事を画策する女子高生とか、想像つかない事するヤツもいるわけだからね。世の中、広いだろ? いろんな人がいてさ」
矛先が自分に向いて腕の中で彼女が一瞬固まる。うーっと、くぐもったうなり声が響く。
「ごめんなさいっ」
「気にすんなよ」
さんざんからかってようやく満足した。
「怒ってる?」
「いいや」
「じゃ・・・呆れてる?」
「それなりにね」
「・・・迷惑だった?」
「寒いのは。でも、それ以外は別に」
不安そうに詰め寄ってくる彼女に俺は笑いながら答えた。その度に彼女の表情がほぐれていく。
「だいすき」
腕の中で彼女が呟いた。
(不意打ち過ぎ。このタイミングで言うか普通?)
このままキスしてやろうかとか、手を服の中に突っ込んでしまおうかとか、いろんな煩悩が脳裏を駆け巡るが、奇跡的な忍耐力で堪えた。その代わり、俺の無反応に彼女の体がこわばっている。
「帰るか」
何とか葛藤を隠し、ごまかす事にする。