05 5話
次第に落ち着いていく気持ちに珈琲を一口含み喉を潤す。この二人だけの補習の中でも最大の楽しみが深川先生が淹れてくれた珈琲を飲む事だった。これは俺と深川先生が二人だけになったときに始まった事。
「雪村くんは頑張っているから、私からの特別なご褒美ね」
そう言って淹れてくれる珈琲は格別美味しかった。
俺は基本はブラックでたまに砂糖をいれるくらい。対する深川先生は角砂糖にミルクをたっぷりの甘めが好き。
「熱いから気をつけてね」
「あ、はい」
湯気が立ち上る珈琲カップを手に持ち、湯気を少し退かすように息を吹きかける。そしてカップに口を付け、喉を通る珈琲の香りと苦味を味わっていた。目の前に座っている深川先生も同じように、カップに息を吹きかけて口を付けていく。
「ふぅ・・・おいしいね」
「はい。それにしても、先生は甘いのが好きですね?」
「え? 子供っぽいかな?」
カップを抱えたまま、恥ずかしそうにカップの淵をなぞる仕草を繰り返す。カップに視線を向けているのだが、窺うように俺の顔を見てはまたカップの水面を眺めている。
「いえ、そんな事ないですよ。俺は、その・・・先生はそっち方が、えっと」
「・・・・・・え?」
「あ、えっと、気にしないでくださいっ! 熱っ」
「あ、大丈夫っ?」
まだ冷め切ってもない珈琲を一気に口に含んだものだから、頭が反応する前に身体が反応した。
「だ、大丈夫です。ごほごほっ」
「熱いから、気をつけて飲まないとヤケドしちゃうよ」
眉をひそめている深川先生の顔は心配そうに目を潤ませ、そっとハンカチを俺の口元に当てていた。目の前にあるのは深川先生の顔。ありえないほどに近い距離にある深川先生の唇から紡がれている言葉も俺の耳には入ってこない。代わりにうるさく鳴り響く俺の心臓が壊れそうな勢いで鼓膜を震わしている。
「うーん。染みにはならないと思うけど・・・・・・明日も着なくちゃいけないんだから、汚したら駄目じゃない」
ふわり、と春のような清々しい香りが鼻を掠めていく。
(これは深川先生の香り?)
俺の口元から離れていく香りが、顎を伝い、襟元、ネクタイ、そして制服と順に下がっていくのを自然と追っていた。この香りは俺の思考を惑わす。頭の中が支離滅裂な言語が勝手に飛び交い、混乱の極みに達してしまう。
「あ、あの先生っ」
「何? これは落ちないわね」
俺の声に耳を傾けながらも、制服に付いた珈琲の染みを拭おうとしている深川先生。
「せ、先生は、そのっ、好きな人いますかっ」
(言ってしまった・・・・・・)
「え?」
(こんなときに言うべき事でないはずなのに)
短い驚きを含んだ声と表情を向けている深川先生。
「あ、あの・・・えっと」
ハンカチをきゅっと握り、俺の顔を見つめる先生の瞳は驚きで見開かれている。
「え、えっと、忘れてくださいっ」
俺は取り返しのつかない事を聞いてしまった。だって、これだけ先生が困っている。俺はきっと触れてはいけない事に触れた。だから雰囲気を一秒でも早く変える為に、俺は急いで頭を下げた。息を飲む音が静かな室内に響く中、ゆっくりと顔を上げる。そんな俺の目に飛び込んで来たのは頬を染めて、はにかむような笑みを浮かべていた深川先生の顔だった。
「あ、うん。・・・ちょっと驚いちゃった」
照れ隠し。そんな風にも見えるが、俺はきっと聞いてはいけない事を聞いたのだろう。そんな顔をされるのは、俺としては耐えられるはずもない。
「すいません」
「あ、いいのよ。でも・・・ど、どうしてそんな事聞くの?」
まだほのかにピンク色に染まる頬を俺に向け、いつもは優しげな瞳に少し真剣な色を宿している。
(・・・今しかないのか)
俺はまた勝手に暴走しようとしている。たった今、過ちを犯したばかりなのに、俺はまた。でも、俺の気持ちを伝えるには今を逃すとないのかも知れない。そう思うが早く、考えるよりも早く。
「お、俺は・・・深川先生が」
だが言葉にしようと思うのだけど、うまく出てこない。喉に張り付く言葉の欠片が何故か抵抗するように口から出て行こうとしない。
(駄目だと思っているからなのか? 歳が離れているから? 先生と生徒だから)
そんな考えばかりが頭を過ぎっていく。
「待って!」
「え?」
いつもより力強い声に驚き、その先にいるはずの人物の顔を窺うかがう。ハンカチを両の手で握りしめ、小さく震える唇をきゅっと噛み締めている。
「それ以上は言わないで。今はそれ以上っ!」
言葉にならない息遣いの後、俺のそばから離れて行く足音が響く。
「せ、先生っ」
反射的に足を止め、俺の方へと振り返った先生の頬に伝う光の雫が一つ、二つ、と流れては落ちる。それ以上、言葉を持たない俺は何も言えなくて、また駆け出していく先生を止める事が出来なかった。
部屋の扉は開け放たれ、静かな廊下を遠ざかっていく先生の足音だけが俺の耳に残っていた。