10
樹の言葉を眞衣にはすぐ理解することができなかった。
美月が付き合ってるのはマスター。
頭の中で樹の言葉を反芻し声を上げた。
「え? 違うでしょ、だって・・・」
眞衣は未だ混乱する頭で思い出していた。あの時、桜庭に彼女かと聞いたが『誰の彼女か』とは聞かなかった。対して桜庭も主語を省いていた気がする。そして美月も『彼』という表現しか使っていなかった。つまり、恋人関係にあるのが『桜庭と美月』ではなく『樹と美月』だと思い込んでいただけだった。
眞衣はゆっくりと額に手をあてた。
「私、勘違いしてた?」
樹は大きく頷いた。そして、何かを思いついたようにはっとして、急に笑顔を見せた。
「ね、もしかして・・・嫉妬してた? 俺が結婚するって思って」
そう言われた刹那、眞衣は自覚した。美月から話を聞いて、妙に腹立たしくなったり、気分が暗くなったりしたのは、美月に嫉妬したからだったから。そう思い至りなんだか急に恥ずかしくなる。顔中に熱を感じた。
「し、してないわよ。嫉妬なんて」
自覚したのに口からは否定の言葉が漏れた。そんな眞衣の手を樹はゆっくりと手を伸ばし握る。小さかった手はいつの間にか眞衣の手よりも随分と大きく、逞しくなっていた。
「俺はいっぱいしたよ。眞衣ちゃんが誰かと付き合う度に、今度こそ取られるんじゃないかって不安だった。だって、眞衣ちゃん惚れっぽいし」
「それは、お姉ちゃんが取られると思ったからでしょ?」
眞衣が樹を見上げると、樹はゆっくりと首を横に振った。
「昨日も言ったろ。俺、眞衣ちゃんのことお姉ちゃんだって思ってないって。俺は、眞衣ちゃんが好きなんだ。お姉ちゃんとかそう言うんじゃなくて、一人の女性として好きなんだ」
眞衣は大きく目を見開いた。樹がいつになく真摯な瞳を向けてくる。驚きすぎて言葉が出てこない。
「そんな驚いた顔しなくていいじゃん。俺、結構アプローチしてるつもりだったんだけどな。全く気づかなかった?」
その問いに眞衣は大きく首を縦に振ると樹は苦笑を浮かべた。そして、また抱き締められた。
「眞衣ちゃん、俺じゃダメ?」
「だって、私、もう二十七になったんだよ」
「知ってるよ」
「六歳も年上なんだよ」
「分かってるよ」
本当に分かっているのだろうか。誰が見たって、きっと恋人には見えないだろう。樹が恥ずかしい思いをするのは目に見えている。
「昔に言ったはずだけど。大きくなったら結婚してって。眞衣ちゃん言ったよね。大きくなっても気持ちが変わらなかったら結婚してくれるってさ」
それは、眞衣も憶えていた。憶えているが、それは幼い日の他愛無い口約束。樹が憶えているなんて思ってもみなかった。
「好きなんだ、眞衣ちゃん。俺と付き合って」
抱きしめられているせいで樹の言葉が眞衣の体に響いた。
本当にいいのだろうか。本当に。
眞衣の心は揺れる。年が離れすぎているとか、似合わないとか。そういう口実を作って、自分の思いに蓋をしていたのではないか。大切な弟だと思っていた。でも、樹に向けている気持ちは本当に弟への思いだったのか。
眞衣は息をついた。一度目を瞑って、自分の気持ちを再確認する。
答えは決まっていた。
「私でいいの?」
そう聞くと、樹は泣き笑いのような表情をつくる。
「眞衣ちゃんでいいんじゃない。眞衣ちゃんがいいんだよ」
より一層、背に回された腕に力が込められた。少し痛い。でも、心地いい痛みだ。
眞衣はもう何も言わず、ゆっくりと樹の大きな背に腕を回した。