D 新居
二十九曲目 〜とある日〜
 金曜日の夕方、仕事を終えて一目散に家に帰ってきた晃汰は間髪入れずにバスルームへと飛び込む。汗はかいていないし髪型がキまらない訳ではないが、いつもよりも入念に入浴を済ませて髪をセットする。やがて鏡に映る自分にとりあえずの満足をすると、前日に用意していた服へと着替えた。ひとつのシワも許さない徹底ぶりで、革靴の埃も許さないほどだ。
 すっかり支度を終えてマンションのエントランスに出れば、既に一台のタクシーが待機していた。晃汰が事前にチャーターしていたもので、彼が乗り込むと同時に運転手はドアを閉め、目的地へとアクセルを踏んだ。晃汰が予約したのは個人タクシーで、車種は彼の実家でも乗られているLEXUS LS500である。何故彼がLSを選ぶのかは、大衆車では得られない広さ、そして充実した装備の面である。手慣れた手つきで天井に埋め込まれたミラーを出すと、顔や髪型を細かく確認し始める。ひとしきりチェックを終えれば、今度は靴紐をもう一度締め上げる。これほどまでに身なりに気を使うのは、晃汰が森保と会う時ぐらいである。そんな特異なギタリストを乗せ、LSは都内の中心部へと軽快に走った。

 目的の店は青山の一角にあった。他所行きな出で立ちのギタリストはタクシーから降りると、店の扉を開けた。

「丸山様、お待ちしておりました」

 黒髪をオールバックにした30代前半ととれる男性が、入店した晃汰に頭を下げて案内する。最も奥の個室前でウエイターは引き下がり、晃汰は呼吸をひとつしてから中へ入った。

「早かったじゃん。まいやんとまちゅが少し遅れるってさ」

 扉を開け、晃汰は突如として何年か振りの懐かしさを憶えた。彼女が卒業を個人的に言い渡した時と同じように、容姿端麗な美女の前には白ワインが置かれていた。

「お久しぶりです、奈々未さん」

 橋本が卒業して数年、連絡は取り合っていたものの、こうして顔を合わせるのは卒業ライヴ以来だった。
 
「何よ、かしこまって」

 変わらない乾いた笑い方、晃汰はそれだけで彼女が彼女であり続けている事を思い知った。

「で、まいやんを抱いたんだってね」

 案内をされる際に注文していた、食前酒のベリーニを思わず晃汰は吹き出しそうになる。例のように乾いた笑い声で、橋本は彼のそんな様子を悪戯に楽しんでいる。

「誰から聞いたんですか」

 声を潜めた晃汰は、辺りを見渡してから橋本に顔を近づける。

「え?本人から。晩酌終わってからまいやんの方から仕掛けて?ドラマだね〜」

 あまりの恥ずかしさに、晃汰は顔を手で覆ってしまう。いじめっ子のような眼をする橋本は、目の前に置かれたワイングラスを手にする。

「それで、元気でやってたの?なんか記憶失くしたとか、色んな人から聞いたけど」

 意外にも、橋本は乃木坂内部の情報にも通じていた。自ら彼女にその事を伝えた過去は無く、晃汰は白石あたりから伝わったのだと仮定した。

「一時期、失くしてました、色々あって。今は大丈夫ですけどね」

 あまり深くは語らずに、大まかな事実だけを伝える。橋本に対し、必要以上に心配をかけさせたくないという晃汰の思いだった。それを分かってか、橋本もそれ以上の問い詰めをする事はなかった。

「そんな奈々未さんは、彼氏の一人でもできたんすか?」

 重くなった空気を振り払おうと、ベリーニを飲み干した勢いで晃汰は口を開く。薄暗い照明の中、テーブルに置かれた蝋燭の光に照らされる橋本の顔は神秘的である。そんな彼女の唇が動くのを、晃汰は見つめながら待った。

「できたよ」

 あくまでも事実を伝えるだけというスタンスからか、橋本は表情を変えなかった。それは晃汰も同じだったが、腹の中では明らかに動揺をしている。彼女がいる上に意識する事はなかったが、それでも晃汰は橋本に男ができてしまった事を正直に喜べなかった。

「…って言ったら?」

 いつの間にか俯き気味だった顔を上げると、蝋燭の光も相まっていつもよりも悪い笑顔をする橋本がいた。晃汰は鼻で笑って肩を落とすと、空のカクテルグラスに付いた水滴を撫でた。してやられたり、罠にハメられて悔しかったが、晃汰はどこか気持ちが楽になっていた。
 もう少しで到着する旨の白石と松村連名のメッセージを受け取り先に来ていた二人は一旦、会計を済ませることにした。

「私の方が多く飲んでるから」

 橋本は晃汰が財布を出そうとする仕草を手のひらで制し、これまたブランド物の財布を取り出して札をウエイターに渡す。彼女の今の職業は会社員なのは晃汰も知っているが、チラッと見えた札の数からして相当いい給料を貰っているのは察しがつく。そうでもなければ、都会の真ん中に人を呼びつけないだろうと晃汰は詮索する。
 
「今度はサシ飲みでね」

 橋本はニヤリと笑う。

「あぁ、悠太も一緒にな」

 晃汰も口元に笑みを浮かべるが、首元のネックレスをわざとらしく弄る。

「そうだったね、まどかちゃんがいたんだった」

 橋本の一言で、もうファンにも森保の存在がバレてるのではないかという不安が、一気に晃汰を襲う。

「そんな怖い顔しないで、これもまいやんから聞いたの」

 どうやら白石を徹底的に懲らしめないといけない。晃汰は早く彼女達が現れないか、首を長くして待つことにした。

 申し訳なさそうに頭を下げながら、白石と松村は二人が待つ個室に入ってきた。二人揃ってやってきた訳は最後の仕事が同じだった為で、スケジュールを把握している晃汰はその事を分かっていた。そんな彼女らを、橋本は笑顔で迎え入れた。

 数年ぶりに数名と会うと、今まで忘れていた何かを思い出したような感覚に、橋本は陥った。ただ金を稼ぐためだけにやっていたアイドル業が次第に自分の生きがいになっていったのは、紛れもなく目の前で酒を飲む面々のおかげだった。毎年この日は何故か乃木坂のメンバーからメッセージを貰うが、今年は自ら食事会を主催した。毎年決まった日にメッセージを送ってくる真意と、たまには懐かしい面々と食事を共にしたいという願望も橋本にはあったのだ。

「こんな他所行きな所で飯食うの、久々かも」

 口調とは裏腹に綺麗なナイフ捌きを披露する晃汰は、魚のマリネに舌鼓を打つ。

「私だって久しぶりだよ。いつも自炊だからね」

 何かを否定するかのように橋本はかぶりを振る。白石と松村も同調する様に首を縦に振りながら、グラスを傾ける。白石は既に日本酒、松村はカシスピーチを選んでいる。もう何度も同僚達と酒を酌み交わしているというのに、晃汰は未だに乃木坂達が酒を口にする光景に新鮮さを覚える。それは酒豪と言われる伊藤純奈から、二十歳になったばかりの与田まで全員だ。

 とは言え、ドラマや映画の打ち上げをこぞって自粛する連中だから、酒を飲む機会などこういった場面しかない。事務所的に打ち上げなどの参加をNGにした事はなかったが、メンバー自身が立場を考えてそういった身の振り方をしている。だから晃汰はその分、関係者という名目で呼ばれる飲み会には極力参加して、乃木坂の名前を売り込んでいる。その外交から得た仕事は数知れず、今野は彼に対してかなり多めの接待費を出す事も惜しくはなかった。

 そんな仕事の臭いがする飲み会とは打って変わり、今夜の橋本会で晃汰は大いに羽を伸ばす。言ってしまえば、年上のお姉様方に甘えたいのだ。
 
「あの時は笑ったよ〜。美彩(衛藤)と三人で飲みいってさ、もうレサワ(レモンサワー)一杯とかで潰れちゃったの」

 酒のせいで赤くなった赤石さんは、橋本が晃汰に卒業を打ち明けた翌日の出来事を、面白おかしく話す。お初の橋本と松村は興味津々で、当の本人は苦し笑いをしながらカルーアミルクを舐めるしかなかった。

 予想通り一軒目では終わらず、その後は居酒屋をもう一軒はしごし、更にはカラオケへと雪崩れ込む四人の姿があった。橋本が一番はしゃいでおり、何年かぶりの戦友達との思い出話は尽きない。それは現役の三人も同じだった。ファンの間で神と称される彼女は、メンバー間でも一味違った。晃汰は橋本の卒業を大好きなBOØWYの解散と重ね合わせるような発言を、色んな場面でしていた。そして苦楽を共にした一期生も、橋本の存在を崇めていた。

 前夜の余韻と酒が抜けきらない中で、晃汰は事務所へと出勤した。部屋を出る際にアルコールチェッカーで、呼気に異常が無いことを確認して車できた。まだ86は戻ってきておらず、代車の新型ヤリスがその立場を担っている。メンバー達と駄弁っている白石と松村を探し当てると、晃汰はすぐさまに昨夜の宴の礼を言った。晃汰は帰りのタクシー代までも、御三家の好意に甘えたのだ。

「また行こうね」

「今度はサシやで」

 何度も頭を下げて二人に感謝の念を伝え、自席に戻ってきた晃汰はパソコンを立ち上げた。今日の日付は7月4日、昨日は7月3日だった。

■筆者メッセージ
ななみさん、美容室に降臨してましたね笑
Zodiac ( 2020/07/15(水) 07:03 )