C 東雲
二十四曲目 〜契約成立〜
 心身ともに覚醒した翌々日、晃汰は胸の時に世話になった都内の病院にかかった。同じく主治医は山室だが、今回は内容が違いすぎる。

「そのシルビアに感謝しかないじゃん。まぁ、86は残念だったけれども」

 もはやプライベートでも白衣を着ているのではないかと錯覚するぐらい白衣姿が板につく山室は、冷徹そうな銀縁メガネの奥で眼を細める。この時初めて、お互いの趣味に共通項があることを認識したのだ。それも患者の意識が完全復活を遂げたのだから、主治医としてもこれ以上望むものがなかった。

「けど、それだけ稼いでればもっと違う車、乗れるでしょ」

 背もたれのある椅子に座る山室は、少し声をひそめて人差しと親指で円を作った。

「違うんですよ。遅い車を自分の手で速くしていくことに、ロマンがあるんですよ」

 晃汰は頭を振ると、希望に満ちた眼を主治医に向ける。山室の愛車がBMWのM2 CSという事を顧みての発言である。これには山室も一杯食わされたようで、頭部を押さえて苦笑いを浮かべた。

 診察とは名ばかりの雑談を終え、晃汰は山室の元を離れた。再来してきた年下の患者を思いの外、気にいってしまった山室は自ら連絡先の交換を申し入れた。晃汰もなんとなくそんな気はしていた為、すんなりとそれを受け入れてスマホを取り出した。次こそは仕事場ではなく車とともに、山室は切なる願いを晃汰に説いて彼を帰した。

 病院を出て、最寄りの地下鉄へと潜る。何気ないその瞬間でも、晃汰は愛車の温もりが忘れられなかった。86に出会ってから公共交通機関を使う機会がめっきりと減り、それに比例して真っ赤なマシンの走行距離は伸びていった。

 晃汰は乃木坂本部で、全快の挨拶をした。それは心身ともに正常な状態へと戻ったという、宣言でもあった。続いてメンバーの元へ、サーキットで有耶無耶なまま帰ってきた面々にも、事の事態を自身の口から説明する。当時の竜恩寺がした説得が功を奏し、あまり過度にならずに晃汰の無事を願っていた連中だったから、いざ本人が生還したからと言って騒ぎ立てることはなかった。ただ粛々と、ギタリストの覚醒を喜んだ。


 その夜、晃汰はとある一人のメンバーを、行きつけのバーに呼びつけた。彼女のスケジュールを考慮せずに呼ぶ事に抵抗はあったが、彼にはどうしても伝えなくてはいけない事があった。

「ごめんね、遅くなっちゃった」

 一見すると地味な服装に身を固めた白石が、少し息を弾ませながら晃汰の隣に座る。小走りで来てもらったのだと考えると、晃汰は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「こっちこそ、いきなり呼んで申し訳ない」

 体勢を変えながら話す晃汰に、白石が靡かせた髪から素敵な匂いが香る。熱海の夜、何度もお互いを求め、その度に鼻腔をくすぐったあの匂いだった。

 会話のきっかけは晃汰が作った。男としてそこははっきりさせておきたかったし、白石から話始めさせてしまうのは何か違う気がしてならなかった。

「全部思い出した、彼女のこともギターの事も。で、その間に記憶喪失になってた事も全部…だから俺が麻衣ちゃんにしてしまったことも…」

「待って」

 自責の念に駆られる晃汰を、白石は右の掌を突き付けて制する。

「それじゃあ、私が同意してなかったみたいじゃない。晃汰は何も悪くないよ?私が晃汰を求めたの。あの事は、二人だけの秘密だからね」

 悪戯っ子のような笑顔の白石に、晃汰も自然と笑みが溢れる。そりゃ言えないよ、カルーアミルクを舐める口元はどこか楽しげである。

「それと、私からも一個話があって…」

 二杯目のカクテルが目の前に置かれるのをきっかけに、白石は自身の左側の座る晃汰の方へ身体を向ける。両肘をカウンターテーブルに置く晃汰は、首だけを彼女の方へと捻った。

「私の卒業曲を作って欲しいの」

 特段驚くことはなく、再び正面を向いた晃汰はミルク多めのカルーアミルクを口に含む。だが内心は落ち着いてはいられないほど嬉しかった。自分が覚醒した瞬間から彼女に曲を贈りたいと切に願っていたギタリストは、本人からのオファーに二つ返事で快諾した。

 酒が進むと、話題は専ら晃汰の喪失期間の話題になる。

「忘れてる当時は、記憶喪失っていう考えが全くなくて…皆に言われるまで自分がLostしてるなんてわからなかったもん」

 その当時を懐かしんで振り返る晃汰の横顔は、どこか楽しげに白石の眼に映る。彼がマイナスの要素を負った時にこそ眼を輝かせてしまう性格なのは、一緒に仕事をするようになってからすぐに白石は気付いていた。
 とある生番組でのことだ。スタッフの手違いで晃汰のギター以外の機材がスタジオに届かないという事態が発生した。サウンドには人一倍拘りを持つ晃汰にとったら、自前の機材を使えないことなど死を意味している。それでも彼はスタッフを責めることなく、秘密裏に他の演者に頭を下げて代用できそうな機材をかき集めた。

「こう言う時こそ、ギタリストの技量が試されるじゃん」

 晃汰のその言葉が、白石にはとても印象強く突き刺さった。結果として生放送は無事に終わり、晃汰もある程度満足のいくサウンドを響かせることができた。パワプロで言う逆境に強さを発揮する当時の姿と今の彼の横顔が、白石には重なって見える。

 心地良い酔いを残し、二人は店を後にした。二軒目には向かわずに白石はタクシーへ、晃汰は電車に乗り込んだ。特段の返送もしないまま公共交通機関に乗ったが、最寄りの駅まで晃汰に話しかけてくる者などなかった。そんな電車内で、晃汰はすぐにさっきまで会っていた乃木坂のエースへメッセージを送った。送ると同時に既読が付き、白石も同じトーク画面を開いている事が分かった。何回かのやりとりで終わったが、どちらもそれ以上の充実感を感じていた。晃汰は白石に必要とされている事、対する白石は晃汰が完全に復活してくれて自分に曲を作ってくれる事、平たく見れば小さな事が二人にとったら大きな事として位置付けられている。そんな願ってもなかった復活劇に、二人は胸を膨らませながら帰路についた。
 

Zodiac ( 2020/06/18(木) 18:44 )