A 欠落
八曲目 〜退院〜
「お世話になりました」

 ボストンバッグを足元に置き、晃汰は約一か月間苦労を共にした主治医に頭を下げた。

「あまり無茶するなよ」

 いつもの服装、白衣に銀縁メガネ姿の山室は左手をポケットに突っ込んだまま、晃汰に右手を差し出した。晃汰はそれに笑顔で応じ、ボストンバッグを担いで病院と山室に背を向けた。

 自動扉を二枚くぐり表玄関に出ると、竜恩寺が真っ赤な86と共に晃汰の出所を待ち構えていた。竜恩寺に持っていたバッグを投げつけ、晃汰はコックピットに乗り込んでエンジンを始動させた。車全体が振動してエンジンが唸りをあげ、晃汰の身体も震える。久しぶりの相棒との対面に、晃汰は早くも手に力が入る。

「存分に回しなよ」

 トランクにボストンバッグを詰め込んだ竜恩寺は助手席に乗るや否や、舌舐めずりをする晃汰に追い討ちをかけた。ふんと鼻を鳴らしただけだったが、その言葉は晃汰にもしっかりと火をつけていた。ホイルスピンやスライドといった無茶な運転こそしないが、必要以上に回転数をあげて吸排気音を室内に流し込む。もちろんオーディオはOFFだ。文字通りどん底に墜ちた親友に生き生きとした表情が戻った事が、今の竜恩寺にはどんな事よりも嬉しかった。

 病院を出て、晃汰はすぐに首都高に乗った。入院中に竜恩寺に頼んで愛車に取り付けたパーツの出来を、自身の身体で確認したかったのだ。

「明かにアクセルが軽くなった気がする。こりゃサーキットで回したら相当速いぞ」

 新たに取り付けたスロットルコントロールに、晃汰は笑みを隠しきれない。隣に座る竜恩寺も、試走だけではあるがその効果を体感した一人である。

「アクセルの踏む量を少なくしないと、普通にホイルスピンするぞ」

 仕方なしに持ち主よりも先に乗ってしまった竜恩寺だが、自分の感じたままをコックピットの晃汰に伝える。前を見続ける晃汰だったが、意味ありげに眉を動かしてアクセルを踏み込んだ。

 二人はその足で乃木坂本部へと向かった。退院の報告をする為である。退院から一週間の休暇を貰っている晃汰だったが、その休暇を犠牲にしてまでも挨拶をしに行くのである。

「ご迷惑をおかけしました」

 久しぶりに顔を合わせた上司たちへの一言目、晃汰は礼儀を欠かなかった。

「休暇だっていうのに全く・・・ 今日は勤務扱いで、明日から一週間の有休な」

 肩をすくめる今野だったが、表情は嬉しそうだ。一方の徳長の表情はどこか曇り気味である。

「そんな顔しないでくださいよ、徳長先輩。記憶なんて、徐々に思い出していきますから。存分にイジッてくださいよ」

 自分の現状を受け入れている晃汰は、明るく徳長に首を垂れる。それを見て徳長も幾らか表情を取り戻した。職場の空気がすっかり明るくなったところで、全体練習を行なっているメンバーのもとに晃汰は一人で向かった。そうとは知らず、メンバー達はレッスン場で汗に塗れている。床とシューズが擦れる音に懐かしさを覚え、晃汰は壁にもたれて休憩時間(ブレイク・タイム)が来るのを待った。

 自分が抜けて約一ヶ月、ちょうど48と46を彷徨っていた時期と同じくらいの期間を、またも空席にした。怪我を隠していながらの紛れもない事実に晃汰は当初、メンバーに合わせる顔がなかった。だが内輪で公表されて以降、晃汰のもとにはメンバーから頻繁に連絡が寄せられた。中には夜通し電話口に語り明かしたり、忙しい合間を縫って直接見舞いに来た者もいた。その誰もが、「早く戻ってきてね」といった言葉をかけてきた。晃汰はそのヒトコトだけで何度も救われた。曲が作れずギターも弾けないギタリストなど、もはや存在する意味が無いと晃汰は自嘲していた。だがメンバーを含む乃木坂陣営は、晃汰の復帰を望んだ。それは何故なのか、今の晃汰には分からないでいる。

 晃汰が壁に背中を預けて物思いに耽っていると、レッスン室のドアが音を立てて開かれた。音が外部に漏れぬよう頑丈な作りをした鉄扉の中から、小さな顔がヒョッコリと顔を出して晃汰の方を向いた。

「何してんの?入りなよ」

 まるで彼がそこにいる事を分かっていたかのように、斎藤飛鳥はいつものクールな表情のままだった。その斎藤の後に続いて晃汰は、汗と香水の匂いが充満するレッスン室へと入った。そこには直立不動で待機するメンバー達が待っていた。公開処刑だな、晃汰は口元だけに苦笑を浮かべた。

 メンバー達とギタリストは数メートルの空間を空けて対峙する。ピンと張り詰めた空気の中、晃汰は真っ先に頭を下げて彼女らに謝罪の言葉を口にした。

「この通り、身体は元気です。けど、多分どこかの記憶が逝っちゃってるみたいで・・・」

 自嘲気味に話す晃汰とは対照的に、メンバー達はみるみる顔を強張らせていく。気心知れた同僚以上の存在が記憶障害を負ったとなれば、その反応は必然である。

 最後にまた頭を下げて晃汰の弁解は終わった。予想通りの空気感に晃汰は納得し、目の前にいる46の言葉を待った。すると新キャプテンの秋元が神妙な面持ちで歩き出し、晃汰の目前で止まった。時間にするとあっという間だったが、晃汰にとっても秋元にとっても、メンバーにとってもその十数秒は永く感じられた。左の頬に衝撃とともに痛みが生じ、甲高くも乾いた音が防音壁に吸収される。秋元の振り切られた右手と自身の左頬の痛みを重ね合わせ、晃汰は自分が平手打ちをされた事を初めて理解した。

「なんで言ってくれなかったの?怪我してること・・・曲を書く人だって、ギターを弾く人だって他に沢山いる。でも、貴方は一人しかいないんだよ?私たちはただのビジネスパートナーなの?そんな事、私たちが許さない。私たちに骨折を隠す為に、貴方は乃木坂に戻ってきてくれた筈じゃない。家族も同然なんだから隠し事はやめて、もっと自分を大事にして」

 下唇を噛みしめながら、秋元は晃汰の眼を強く見つめる。見舞いに訪れた時は隠していた本音が、このタイミングで止めどなく溢れる。それは新キャプテンとしての責任感か、人一倍溢れる母性からなのか、秋元自身も自分の止まらぬ感情に言動を任せた結果、口よりも先にてが出てしまったのだ。温厚な性格を絵に書いたような秋元は、幼少期から人に手を上げるということが全くなかった。姉弟喧嘩だって、一度たりとも秋元が暴力に走った事などなかった。そんな温和な彼女が年下男子の頬を叩く事が、どれだけ大事か叩かれた晃汰もその様子を見守るメンバーにも分かっていた。

「だから、もう隠し事はしないで・・・君を独りにするような乃木坂には絶対にしないから」

 秋元は言い終わると、いつもの笑顔を晃汰に向けた。その瞬間、晃汰は膝から崩れ落ちて咽び泣いた。怖かったのだ。記憶を失い、自分がどんな過去を持っていたのか、途切れ途切れにしか思い出せないことが。親友が言う両想いの相手がいたということすらも忘れてしまっている自分に、夜が来るたびに失望しやり場の無い怒りを枕に叩きつけた。そんな境地から一瞬にして秋元に救われた。この人には一生頭が上がらない、晃汰は秋元の腕の中で涙が枯れるまで泣き続けた。

■筆者メッセージ
毎度のことながらお久しぶりになってしまいました・・・
Zodiac ( 2020/03/13(金) 22:07 )