09
渡辺がクラスに馴染み出してから数日が経ち、もはや渡辺は陰キャラというよりかは中心グループの一員となっていた。俺との恋人説や片思い説の話題もほとぼりが冷め、俺もこれまでの日常を取り戻しつつあった。
一時期は”平手や渡辺に手を出した二股男”などと言われて多くの男子から刺すような視線をくらってきたが、なんとか乗り越えた。同じクラスの奴らは話せば分かってくれたが、他クラスの奴らはどうしようもない。
誤解を解くことはできないので、今だに廊下を歩いていると他クラスの男子から睨まれることもしばしば。時が経てば、こんな状況も風化していくだろうと思い、長いスパンで今の状況を考えることにした。
そんなある日の放課後。
俺は平手のクラスのホームルームが終わるのを待っていた。教室の前で待っていては、他クラスの男子から顰蹙を買ってしまうので、昇降口で待つことにした。
そもそも何故待っているのかというと、理由は平手と一緒に帰るためである。朝は一緒に登校していたが、最近になって下校も一緒にということになった。
この状況の風化を望んでいるのに、登下校を一緒にするというのは矛盾している気がするが……。だが、俺と噂されているらしいから思わせぶりな行動は控えようと提案したところで、平手から「そんなのどうでもいいじゃん」と一蹴されるだろう。
それに俺から「俺たち噂されてるらしいぞ」なんて話を持ち出すのは流石に烏滸がましい。注目を浴びているのは俺ではなく、平手なのだから。
後方から下足箱を開ける物音がした。ようやく来たか。平手にはHRが終わったら一番に下駄箱に来て欲しいと頼んでいる。平手には”早く帰りたいから”と銘打っているが、実際は他の男子たちに平手を待っていると悟られたくないからだ。
常に下駄箱に男子がいないというわけではないが、平手のクラスの男子に待ち合わせ現場を見られるのだけは避けたい。それ以外の周囲の目を気にしていたら霧がないからだ。
平手と思い、俺は振り返ったがその人物は平手ではなかった。
「あっ、達彦くん」
俺を見つけるなり、少し飛び跳ねて小走りでこっちに向かってきたのは渡辺だった。あの衝撃的な出会いから数日、俺と渡辺の仲は順調に続いていた。
順調にと言ったら、まるで付き合ってるかのように聞こえるのだがそうではない。一時期、二人の間で変な噂が流れたが、特に気まずい仲になっていない、というだけの話だ。
まあ、渡辺が噂自体をあまり気にしなかったのが、俺たちがこうやって仲良くやっていけている大きな要因かもしれない。
「ここで会うなんて、偶然だね。今から帰るの?」
「いや、平手を待ってるんだ」
「そうなんだ。ご苦労だね」
そう言って渡辺は朗らかに微笑んだ。「ご苦労だね」という言葉に茶化しを入れたのだろうか、声が少し上擦っていた。
しかし、渡辺は朗らかに笑った後、俺の顔をジッと見ながらその場から動かなかった。特に声を発するわけでもなく、無言で俺を見つめ続ける。突如として黙り込んだ渡辺に俺は不安に覚える。何か言われるのではないか、と渡辺の言葉を待ったが、一向に場は進展しない。俺は耐えなれなくなり、渡辺に訳を訊く。
「……渡辺、何か俺の顔に付いてるのか?」
「ううん。そうじゃない」
首を振って否定してもなお、渡辺は俺の顔を見つめ続けた。何だか俺は無性に恥ずかしさを覚え、目線を渡辺から逸らした。夕暮れの陽が辺りを照らしてなければ、今の俺の顔が真っ赤になっていることがバレてしまうだろう。別に変な想像をしているわけではない。単純に恥ずかしいのだ。いくら変わり者の渡辺といっても、クラス中が認める程の美人だ。そんな美少女に見つめられたら誰だって頬を赤らめることだろう。個人的なものではない、これは男子なら共感の得られる一般論だ。
「うん……。やっぱりそうだ!」
「何がだ?」
急に渡辺は納得したようにポン、と手を叩いた。急に黙ったと思えば突然声を上げたりと、俺には何が何だか分からない。渡辺の感情がまだ掴めない俺はただ困惑するばかりである。
困り果てた俺を差し置いて、渡辺はピンと人差し指を立て、嬉々としながらこう言ったのだ。
「やっぱり、達彦くんは私の王子様だ」
一瞬、渡辺が何を言っているのか分からなかった。
聞き逃したわけではない。一字一句しっかりと聞いたつもりだ。渡辺の言葉を何度も反芻した上で、よく理解できていないのだ。いきなりそんなことを言われるなんて予想だにしなかった俺は声が出ないほど驚いていた。恥ずかしいという感情よりかは、俄然驚きの方が勝っている。
「……迷惑かな?」
「い、いやそんなわけじゃ……」
小首を傾げて、そう渡辺は訊いてきた。
まるで子犬のような仕草に俺の心は跳ねる。
「そっか、じゃあまた明日ね」
「お、おう」
感情の脈が見られない渡辺の真意が読み取ることは至難の技だろう。現にとんでもない発言をした渡辺だが、あまりにもあっさりとした態度でそそくさとこの場を去っていった。
俺は一人、その場にポツンと取り残されまま、頭の中では渡辺の言葉が繰り返し響いていた。心臓が高鳴っていることから、俺はかなり興奮しているのだろう。俺は単純なのかもしれないが、思わせ振りなことを言う渡辺にも問題がある。
「あっ……」
気持ちの整理に追われ、大事な事を忘れていた。
俺は今、平手を待っているという事を。予想外の出来事にすっかり本来の目的を忘れていた。ハッと我に返り、視野が広がる。ぼんやりとしていた背景がはっきりと視覚に映る。
そして、タイミングが良いのか悪いのか、視線の先の下足ロッカーで平手がこちらを見て、静かに立っていた。