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桜庭先輩だ。
3年生で一番接触が多かった人。生徒会会計係の桜庭先輩。
俺を早くから認めてくれていた人だけど、この人はさすがだった。会長の隣に座りながら事態の推移を見守り、ここに来て俺の本来の企図に気付いたようだ。余裕たっぷりの笑みを浮かべ、小さく頷いた。
やっぱりこの人には勝てない。そう思ったけど、もちろん顔には出さない。
「そろそろ」
桜庭先輩が笑顔を消して発言した。注目が一気に桜庭先輩に移る。
「諦めたらどうだ? 梅澤」
やる気がない執行部を一人で支えてきた人の発言だ。重みが違う。美波さんもこの人の発言には聞く価値があると思ったようで、組んでいた脚を外した。
「僕も君が本気で取り組んでくれるなら最大限の協力をする。佐藤の言う通り、ここまでの事態になってしまったのは僕らの責任だ。お詫びの言葉もない」
悲痛なほどに、桜庭先輩は率直だった。
「受験生だから。なんてのは言い訳にもならないだろうな。過去の先輩たちもやってきたしな」
会議の空気が沈痛になる。桜庭先輩が国立の難関校を目指していることは有名な話だ。その人が言い訳にならないと自ら断罪した。
「遅まきながら、文化祭成功のために動いていきたい。そのためには、まず根本から大きく変えていくのが一番だ。こんな非常時だ、多少の権道も許されるさ。目的のためにはあらゆる手段は正当化される、政治学の基本だよ」
桜庭先輩が俺の計画に乗ると宣言したことで空気は完全に入れ替わった。
この殺伐とした会議が終わってくれるなら、どんな結論が出てもいい。そう思った人間も多かっただろう。
「佐藤、黒幕としてこのクーデターを教唆した罰は受けてもらうよ。当然だけどね」
桜庭先輩は俺に厳しい視線を送ってきた。珍しく怖い目だった。
俺は姿勢を正して頷いた。何を言うかは分からないけど、ここまでの事態を作り出した責任は取るつもりだった。どんな形でも。停学だろうがなんだろうがどんと来い、なんて変な度胸だけはあった。
桜庭先輩はそんな俺の気配に苦笑したかったらしいけど、そんなことはおくびにも出さずに続けた。
「梅澤がリーダーとしての責任を負ってくれるなら、君には実務面すべての統括役になってもらう。会計分野から企画の取りまとめ、イベントの采配まで。今までとは桁違いの仕事量になる。覚悟は出来てる?」
将軍役の美波さんに対し、それを補佐し実務を統括する参謀長役を俺にやれというわけだ。
「……いいんですか、それで」
俺が注意深く反問すると、桜庭先輩は秀才という言葉を形にしたような顔に強気な笑みを浮かべた。
「君以外の誰が梅澤の補佐をやれる? 実務面の統括というのは、実はそれが一番の役目になると思うんだけどね。僕は少なくともそんな役回りはごめんだ。みんなもそうだろ?」
桜庭先輩が周囲を見渡すと他の人たちは慌てて頷いた。
「ということだ。これは引き受けてもらう。君に拒否権はない」
にやりと笑う桜庭先輩に俺は黙って頭を下げた。屈したように見えるだろう。実際、屈する気持ちだったんだから、そう取られて構わなかった。
「さてと」
桜庭先輩は美波さんを見た。美波さんも桜庭先輩を見つめたまま、無表情だった。どこまでも冷たいその顔はそのまま美術館に展示できそうなほど美しく、気高い。学校のアイドルといわれたり、不良の女神といわれたりした人だけれど、この時の美しさは尋常じゃなかった。
「もう外堀は埋まったな。後は君のやる気だけが問題だ。梅澤」
その美しさに気圧されもせずにいってのけた桜庭先輩もすごい人だった。周囲の高校生とは格が違う。
「僕は以前の君なら、こんなことは頼まない。無責任にもほどがあるからな。素行不良の君にすべての権限を譲ろうなんて」
まっすぐに美波さんの目を見て揺るぎもしない。線の細い感じのする人だけど、芯は強いにもほどがある。
「でも、僕は知っている。実行委員になってからの君を。物事に対して君がどれだけ真摯で、人を惹きつける魅力があるか。君以外に適任はいない。佐藤にいわれるまでもない」
美波さんはついに目を閉じた。一度ほどいた腕をもう一度組み直し、きゅっと口元を結んだ。桜庭先輩も口を閉じた。
俺は当然何も言わない。他の誰も何も言えず、室内はしんと静まり返った。身動き一つ出来ないのは、動けばいすが音を立ててしまうから。
異常な緊張感の中、多くの人が視線をさまよわせた。美波さんを見て、桜庭先輩を見て、俺を見る。
主要人物はこの三人に絞られ、他の人物には視線すら向けられない。ここで一番のVIPは生徒会長のはずだけど、この部屋では既に過去の人になっている。
やがて、美波さんが目を開けた。長いまつげが物憂げに揺れる。組んでいた腕を再びほどいた。
桜庭先輩がじっと見つめる。美波さんは一度俺の顔を見た。表情に変化がある。目に力と決意がある。極限まで冷たかった表情に血の色が差していた。
俺は思わず立ち上がりかけたけれど自制し、じっと座ったまま、こくりとひとつ頷いた。
美波さんは俺からついと視線を外し、立ち上がる。
「……条件は一つだけ」
玲瓏な声が部屋の空気を震わせる。
「聞こうか」
桜庭先輩が美波さんの声に応える。余裕たっぷりの大人の声だった。
「今この場にいる人たちの全面的協力。命令って言い方は嫌いだけど、指示は出します。どんな指示だろうが、従ってもらいます。それが受け入れられますか?」
「受け入れられない奴がいたら今すぐこの場から出て行け」
桜庭先輩の言葉は早くて激越だった。意外なほど大きなその声に、首をすくませた人はいたけど、出て行こうとする者はいなかった。逆らえるような雰囲気じゃない。今まで感じたことのない威があった。
「……ということだ、『新』実行委員長。よろしく頼むよ」
そう言うと、桜庭先輩は立ち上がった。
「佐藤」
呼ばれた俺も立ち上がった。
「君は実行委員会の副委員長であり、執行役だ。文化祭をまとめ上げて見せろ。出来ないとはいわせない」
「はい」
短く、でも大きく返事をした。この人は本当にすごい。場を完全に支配していた。
「というわけだ、みんな。僕は二人を可能な限り支える。みんなも覚悟を決めてくれ」
立ち上がっている三人が周囲を見回す。その場にいる誰もが、少なくともこの三人に従う以外に道はないことを悟ったらしい。
やがて、誰からともなく拍手が起きた。それはすぐに全員の拍手となり、生徒会室を満たした。