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 まるで夢の中の出来事のようだったから、意識的にそうしていたわけじゃないけど、俺はやっぱり現実感がないままに無視していたことになる。

 あれから何日か経った今でも、あの時間そのものが俺の中で消化しきれないままになっていた。美波さんが俺の見舞いに来た夜のことだ。

 もっと言えば、その中で語られた様々な会話。そして、握られた手の感触。あの記憶のどこまでが現実で、どこまでが熱が見せた幻覚なのか。

 どこまでが信じられるもので、どこからが信じてはいけないものなのか、熱に浮かされていたのは間違いない事実。だからこそ自分の中で整理することが出来ないでいた。


 その後に会った美波さんは、あの夜の面影をまったく引きずらず、あんな話は無かったかのようだった。お互いに忙しすぎて仕事に没頭していたせいもあるのだろうけど、あまりにも今までと変化がなさ過ぎた。美波さんの態度も、会話の内容も。

 仕事をしている時までそのことに頭が占領されることはなかった。俺はそこまで恋愛脳じゃないらしい。ただ、門限がある柚菜が帰り、仕事が一段落して、もう帰ろうかというタイミングになった夜の7時半過ぎ、後回しにしていた記憶や感情が不意に浮かび上がってくる。


 美波さんと二人きりになってしまうタイミングがあるのが悪い。

 各クラスの代表や生徒会役員と顔を合わせているうちは気にもならないけど、扉のガラスがまだ割れたまま厚紙が張られている生徒会室。

 俺が書類処理のためにパチパチとキーボードを打っている音と、パソコンのファンが回る音、もう真っ暗になった外から聞こえてくる部活の声、それしか聞こえない生徒会室の中で、美波さんがスマホをいじっている。かすかな息遣いや布ずれの音がやけに大きく聞こえる。

 いつ、誰が入ってくるかわからない空間だからか、美波さんは仕事以外のことでは口を開かなかった。誰かがいれば冗談も言うし、俺と馬鹿な会話もする。でも、2人になると必要以上に口は叩かなかった。


 前までならそれで良かった。俺も学校のスター相手に無駄口を叩くくらいなら自分の作業に没頭していたかったし、美波さんが俺相手に無駄口叩かないのはむしろ当然に思えた。

 なぜ、美波さんともあろうものが、俺なんぞと喋らなければならないのか。

 ところが、その大スターがあまりにも近くなりすぎた。どこまでが現実だったか曖昧という厄介な状況ではあるにしても、美波さんは病床の俺の手を握り、かなりきわどいことを言った。


『こんなにそばにいて居心地がいい男なんか初めてだったから』


 その言葉が耳について離れない。美波さんは、『普通』でいることの心地よさを知って、俺や柚菜ともっと一緒にいたい。とも言っていた。

 文脈から考えれば、美波さんにとっては俺がどうというより、普通というものに対する憧れを自分なりに認めることが出来た、と解釈もできる。でも、解釈の仕方によっては俺を好きだと言ったかようにも思えなくはない。

 いやいや、それはないか、と俺の理性が告げる。ありえないと。


 ただ、記憶にもやがかかっていて、自分の解釈に自信がもてないのが問題だった。それを考えたくないから仕事に没頭しようとするのだけど、2人きりになってしまえばなかなかそうも行かず、ついつい美波さんに気をとられてしまう。

 それでも仕事に没頭しようとした成果は上がっていて、見込みより早く処理ができている。休みもあったし、そろそろ仕事を溜め込むかな、と予測していたけど、意外にも溜めるどころか、いくつかの仕事を先行して始末してしまっている。

 たとえば、各クラスの処理の合間にでもやろうと思っていた後夜祭に使う資材の手配や、使い回しの計画など。全体の計画ができてからでもいいやと思っていたけど、この段階でも作れないことはなかったもの。去年までのものだと不完全もいいところだったから、新たに作り直した。結構そういう書類や計画が多い。


今までは現場の判断でどうにかしていたんだろう。それじゃダメだ、ちゃんと計画しなきゃ、なんて大声でいって回るようないい子ちゃんでも、自分が正義と思えば周りの弱さや怠けを許さない善人でもないから、それで別にかまわないと俺も思う。

 それでも計画を作ったのは、単純に、そうでもしないときつかったからだ。今日はなぜか美波さんと一緒の部屋にいることが多く、その間、仕事してますって顔で間を持たせたかった。ただそれだけの理由でキーボードを打っているうちに出来上がってしまった。

 昼休みに仕事をしてた時、柚菜がしきりに感心してくれていたけど、放課後の仕事については褒められる理由は無い気がする。


 プリンターのモーターが静かな部屋の空気を震わせる。

 書類が2枚、吐き出される。伸びをしてそれを取り、確認。これで間違いが無ければ、今日できることは一通り終わる。そしてざっと見たところ、間違いは見当たらなかった。

 さて、仕事は終わってしまった。

 美波さんはまだ帰らない。

 なぜ、スマホを打っているだけの美波さんが生徒会室に残っているのか。

 理由は知らない。知りたくないし、できれば速やかにお帰りいただきたい気がするのだけど、残念ながらそれを訊ねる勇気がこの時の俺にはなかった。

 人を脅したり喧嘩を売ったりする機会に最近恵まれてしまい、おかげさまで『あいつは怒らせると怖い』だとか『大人しい顔して実は陰の実力者かもしれない』とか訳のわからない評価を得ている俺も、実態はこんなもの。ヘタレの小心者。ここに極まれりだ。



希乃咲穏仙 ( 2022/12/20(火) 21:27 )