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気がつくと目の前に車が止まっていた。
見覚えがある。どこで、という思考より先に映像が浮かんできた。柚菜や美波さんとの日々が始まったばかりの夕方、ラーメン屋での光景。
あの時、見た車だった。柚菜を迎えにすっ飛んできた車。美波さんの華麗な挨拶に恐縮していたのは誰だっただろうか。
運転席から降りてきた人の顔を見て、俺はやっと驚いた。
柚菜の父親に間違いない。
以前、会話の中で聞いてはいた。柚菜の家は代々農家で夕方は割合時間があるから迎えに来てくれることが多いと。
こんな時に会いたくはなかった。今じゃないと思ったりもしたけど、なにしろ頭に濃い霧がかかってしまっている状態だから、あまり考えも覚悟もまとまらない内に立ち上がった。
柴田家のお父様は俺を見るなり、厳しい顔をするかもという予想を覆し、人の良さそうな顔に心配そうな表情を浮かべていた。
「大丈夫かい?」
今日何回目になるか分からない問いかけだったけど、その声も人が良さそうな声だった。
「熱があるんじゃないのか?」
「多分そうだと思う。触っても熱いし」
「すぐ送ろう。病院じゃなくていいのか」
俺の目をまっすぐに見てくるから、俺は思わず頭を深く下げた。
「帰れば薬もありますし、病院じゃなくて大丈夫です」
「娘から話は聞いている。乗りなさい」
そう言うと柚菜のお父様は運転席に回った。その間に柚菜は後部座席のドアを開けている。
「雅毅くん、乗って下さい」
「いいのか?」
「もう呼んじゃってるんだから遠慮しないで下さい」
確かに今さら遠慮しても仕方がない。
「じゃあ、お言葉に甘えてしまおうか……」
失礼します、と断りながら、セダンの後部座席に乗り込む。
「ずいぶんとお世話になっているそうだけど、うちの娘は失礼なことはしてないかね?」
乗るなり言われたから身構えそうになったけど、残念ながらこの日一番に体調が悪い時だったから、身構える気力がそもそも無い。
「とんでもないです。今日もこうしてお世話になってしまって、柚菜さんにはいつも感謝しています」
如才ない挨拶をするのが精一杯だった。隣に柚菜が乗り込み、車は動き出した。道は柚菜が知っているから、指示を出している。
「前々から君の話は聞いていたんだよ」
俺は思わず柚菜の顔を見た。柚菜は、なに言ってるのよ。とでも言いた気に口をパクパクさせていたけど、空気を読まずに柚菜のお父様は続ける。
「特に近頃はべた褒めでね。梅澤さんのお嬢さんもそうだが、君たちの話をしている柚菜が楽しそうでね、我が家じゃ君たちはすっかり有名人だよ」
「……恐れ入ります」
まったく恐れ入る。柚菜はついに言葉を発した。
「ちょっと父さん、そんなこと今言わなくていいでしょ」
家で父さんって呼んでるんだ。初めて聞いたな。
「褒め言葉なんだからいいだろう。佐藤くんの何がすごいといって、どんな相手とでも普通に話せて、仕事もバリバリできて、それでいて気取ったところが少しもない所だそうだ」
「ちょっと!」
お、本気で怒り始めた。しっかしお父様、まったく空気を読まないんですね。
「今まで会ったどの高校生より大人っぽいそうだが、確かに君にはそんな雰囲気があるね。自分が大人だと思い込んでいきがっている子供とは違う。だからといって子供の立場に甘えていない、そんな雰囲気だな」
このぼーっとした状態のガキを相手にこの人は何を言ってるんだろう。などと思っていると、柚菜が諦めたようにため息を吐いた。こういう人だ、とでもいうかのように首を振る。
「何しろ言葉遣いが礼儀正しいじゃないか。近頃の高校生とは思えんよ。大したものだ」
お父様の口調に俺は何かを感じた。でも、その何かがなかなかつかめない。まだ頭がうまく回らない。
「そこ右」
きわめて短く、柚菜が指示を出した。視線を動かすのも面倒になっていたから見ていないけど、なんとなく柚菜の表情は想像が付く。
うんざり、というものだろう。
「うちの娘はこんなだろう? 引っ込み思案でなかなか自分の気持ちを前に出さないから、君みたいな子にいい影響をもらえればそれに越したことはないと思ってるんだよ」
「悪かったわね」
ボソッと柚菜が言った。親が相手ならこの程度の口は叩くらしい。と言うか、娘さん、自分の気持ち前面に出してますよ。それどころか、時々びっくりするほど突っ走りますよ。
忠告してあげたい気にもなったけど、これは口にすべきじゃないだろう。だいたい、運転席に届くほどの声を上げるのが億劫だった。
「今度、うちにも遊びに来なさい。妻も君の顔を見たがっている」
この言葉で俺は突然、理解した。さっき感じたものの正体に。
ああ、そうか。この人は自分を納得させようとしているんだ。
多分、俺が柚菜の彼氏になった人間だと、この人は勘付いている。柚菜がそれを言いたいけど、言えないでいることも勘付いている。
そして、俺に対していいイメージを持つことで自分を納得させて、俺を迎え入れて、取り込もうとしている。
頭から拒否するより、頭から受け入れることを選んだんだ。その方がダメージが少なくて済むから。
相手を受け入れた方が、娘にとってもダメージが少ないと踏んだんだろう。
例えば、俺がつまらない奴だったら、一度受け入れた上で、そのつまらなさを娘にしっかり伝わるように暴いていけばいい。別れるにしても自分の決断の方がいいに決まっている。逆につまらない奴でなければ、さらに自分の思う方向に育てていけばいい。
その自信があるんだろう。
この人は大人だ。愛する娘に関わることですら客観的に見て、より良い方向に導こうとしている。
まだ会ってから短い時間しか経ってないけど、この人は柚菜の父親である以前に懐の大きさに尊敬に値する人に思えた。
「……ぜひ、お伺いします。柚菜さんの御両親なら、失礼な言い方になりますけど、お会いしていてとても楽しくなりそうですから」
熱のせいではなく武者震いがする。意外なところに、意外なほどの人物がいた、という思いだ。木嶋さんとはまったくタイプが違うけど、この人も多分、ついていきたいと思わせてくれる人だ。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。柚菜、文化祭が終わったらでかまわんから、セッティングしなさい」
風邪のおかげで、俺は思いもしない出会いを得られた。たまには病気も悪くないなんて思ってしまう。
なんて思ったりもしたけど、やっぱり気を張ってたせいか、家についてから一気に疲れが出てしまった。
「マサ兄ぃ、言い残したことがあるなら聞いてあげるよ」
帰ってきた璃果にそんなことを言われてしまうような有様に成り果てていた。
やっぱり病気はいかんね。健康が一番だね。