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底の深い洗面器を持ち、私服で俺の部屋に入ってくる美波さんの姿に本日最大級の眩暈を感じていた。
「……元気そうに見えますか? そうですか」
「思ってたよりはってこと。そう嫌な顔しないの」
「突然来ます? それにしても」
「突然じゃないよー。電話したしLINEも入れたよ? まーくんが見てないだけじゃん」
スマホをチラッと見たけど手に取るのはやめた。たぶんウソは言ってない。確かに4時以降はスマホを見てない。
「なんかさ、色々と迷惑かけちゃったからね。せめて見舞いくらいはしようかなって。健気じゃない?」
「本当に健気な人は自分から言わないと思いますよ」
「ほーら、文句いってないで脱ぎなよ。体、拭いてあげるから」
美波さんは黒のカットソーの上に紫の薄手のカーディガンを着て、下はスキニーのデニムパンツ。気取らない感じが近所のお姉さん然としていて嫌味がない。
「自分で拭きますって」
思わず邪険な言い方をしたけど、少なくとも顔の赤さはばれないだろう。なにしろ熱のおかげでもともと赤いはずだから。
「遠慮しなくてもいいんだからね? 妹ちゃん公認なわけだし」
「多分、あれは勘違い街道爆走中なだけです」
「私、彼女さんって思われちゃったかなー」
美波さんはベッドの下にちょこんと座りながら、手を胸の前で組む。わざとらしく可愛らしいポーズをとったつもりらしいが……むかつくほど可愛い。
「俺を訪ねて女性が来るなんてこと自体初めてですからね。オフクロ含めて耳ダンボで様子伺ってるでしょうよ」
「あらあら、大変」
美波さんはにこりと笑いながら言った。
とてもじゃないが目なんか合わせられないから、俺は無言でゼリーを手に取った。
やっぱりこの人はきれい過ぎる。鼻が全然利かないからわからないけれど、多分すごくい香りなんかさせちゃってるに違いない。
そんなことを考え、自分がどれだけ臭いかについての想像が働いてしまった。
ただでさえ大汗をかいていることに加え、火曜の負傷以来まともに頭も洗っていない。
ゼリーを口に含む前にそれどころではなくなってしまい、俺は美波さんを見れないままに口を開いた。
「……早く帰ってくださいよ、こんな臭い部屋にいてもしょうがないでしょ」
美波さんはふっと笑った。
「別に臭くないよ。大体、私が何かを我慢してまで他人の部屋にいると思う?」
微妙な言い方だ。以前の俺ならそのセリフを聞いたら納得していただろう。我慢するくらいなら、顔だけ出してとっとと帰るタイプの人だろうって。
でも、美波さんはそういう風に見られがちなだけで、実のところは真面目で思いやりがある人だと知ってしまっているから、手に負えない。俺を安心させるために言ってるってことも分かってるから、そうですね、とはもう言えない。
「……何しに来たんですか」
「何って、お見舞いに」
「それだけでわざわざ俺の住所まで調べてきたんですか」
住所まで教えた記憶はない。来たということは、調べたんだろう。
「そんな刺々しい声出さないの。病人なんだから、余計なこと考えないで寝てなさい」
「誰が考えさせてるんですか」
俺の声は自分でもわかるくらいにイライラしていた。
「いきなり別れ話を切り出しておいて、その後は何の話もなし。こっちがどれだけ振り回されてると思ってるんですか」
「それは……悪かったと思ってる」
「そりゃ、松谷さんが俺のところに来たのは美波さんのせいじゃないですよ。でも、美波さんと知り合わなければこんな騒ぎに巻き込まれることはなかったんです」
俺は知らず知らずに言いすぎていた。そして、そのことにすら気付いていなかった。
反応が返ってこないから、ちらっと美波さんの顔を見た。
ひどく傷ついた顔で俺の手元をじっと見ていた。
いや待て。俺は今、何を言った?
「……知り合ったのが間違いだったか。そこまで言われちゃうんだ」
しまったと思ったが、とっさにフォローする言葉が思い浮かばない。いつもならすぐに出てくるはずの次の言葉が出てこない。
「嫌われたね。ま、しょうがないか。自業自得だしね」
「いや、そうじゃ……なくて」
「いっぱい迷惑かけちゃったね。ホント、ごめんね。もう一切関わらないようにするから、ここまでのことは謝っておくね」
「そうじゃないんです」
「実行委員もまーくんがいれば動くんだし、私が関わらなくても大丈夫でしょ。代わりは手配しておくから」
「美波さん!」
「そういうことだよね? 知り合ったのが間違いなんでしょ? まーくんにとって私は間違いなんでしょ?」
美波さんが感情むき出しの目で俺を睨みつけてきた。言葉で畳み掛けられ、目線で縛られ、俺は口ひとつ動かせなくなってしまった。
しばらく美波さんと睨み合いになった。というか、一方的に睨まれてすくんでいたという方が正しい気がする。
「……どうしたのよ」
美波さんの絞り出すような声が静寂を破った。
「いつもの華麗な言い訳はどうしたのよ。誤魔化してみなさいよ。かわしてみせなさいよ。それが出来ないほど迷惑だった? 心の底から迷惑だったの?」
目が赤い。泣く寸前という状態で美波さんは踏みとどまっていた。それはプライドか配慮か。ここでこれを言ってしまうのは、すがっているのか、最後のチャンスを与えたつもりなのか。
俺はそこで美波さんがさらに畳み掛けてくれたおかげで呪縛が解けた。
「……迷惑なわけないですよ。間違いでもありませんよ。愚痴っただけでしょ? 病人の愚痴なんか聞き流してくださいよ」
すかさず病気のせいにする。やっぱり俺はズルいのかも知れないな。
「振り回されたことは、まぁ多少は怒ってます。でも、そんなのは友達付き合いしてれば当たり前でお互い様ですし、気にしてませんよ。ただ、こっちは熱あるわ頭も痛いわで余裕ないんですよ。多少、口調はきつくなっちゃったかもしれないです。それは悪いと思ってます」
今度はこちらが畳み掛ける番だ。いつもの冷静な俺ならここで止めていたはず。だけど、今日の俺は普通じゃない。熱に浮かされたまま、歯止めも利かず、言いたいことを言ってしまえと半ばやけになっていた。
「でもね、いきなり別れ話を聞かされる身にもなってくださいよ。しかも、俺に思いっきり関係あることがきっかけですよ。そんなの俺に責任感じたって無理ないでしょう。どれだけ負担になったと思ってるんですか」
俺がこんなにむきになるのは、少なくとも美波さんに対しては初めてなはず。美波さんから視線を切っていたから表情はわからないけど、目の端に捉えた美波さんは、床の上の小さな座布団にぺたんと座ったまま、背をピンと伸ばしてじっと動かずにいる。
「確かに、松谷さんじゃ美波さんの彼氏にはきついなぁって思いましたよ。その辺の女子高生なら充分でも、美波さんの相手が務まるほどじゃない」
俺の声はだんだんトーンが落ちた。でかい声を出さなくても、美波さんが聞いてくれていることがわかったから。声の調子を強くするのは、今日の俺にはやたら負担になる。
「美波さん。なんで、あんな人と付き合ってんですか。美波さんともあろう人が」
松谷さんには絶対に聞かせられない話だ。たかが高1の分際でどれだけ生意気なことを言っているのか理解している。
美波さんはゆっくりと息をひとつついてから答えた。
「彼だけが大人への扉を開いてくれたからよ」