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 昼休み、柚菜から電話がかかってきて怒られた。


『病院行ってないんですか?』

「ま、疲れが出ただけだろうし、今日は様子見でいいかなぁ、なんて」

『ダメです。なんでそんなにのんきなんですか』


 柚菜が大袈裟すぎるんだよ、と言いたかったけど、言えばすごい反論が来るだろうと思って言わないでいた。


『今からでも開いてる病院はありますから、必ず行ってくださいね』


 柚菜があんまりにも勢い良く怒るから、こっちもついその気になってしまう。

 
 うちは共働きだから家には誰もいない。財布と保険証にスマホ、鍵を鞄に入れて家を出た。

 この時点で体温は朝より上がって38.5℃。病院に付く頃にはもっと上がっているんだろうなと思いながら自転車をダラダラ漕いで10分ほどの所にある内科で診察を受けた。じいさんばあさんばかりかと思っていたら、意外にそんなこともなかった。


 診察結果は親の見立てと変わらない。


「疲れで風邪を引いたんだろうね。薬で無理に熱を下げずに、消化のいいものを食べて大人しく寝ていなさい。すぐ良くなるから」


 ウイルス性の風邪の可能性もあるからと検査は受けたけど結果的には陰性だった。


 家に着いたのが4時くらい。まだ誰も帰宅してなかった。部屋に戻り、食欲もわかないままにゼリー型の機能食を流し込み、スポーツドリンクをがぶ飲みしてから、着替えてベッドに入った。

 寒気がひどかった。頭痛は薬のおかげで大したことはない。鼻づまりもひどかったけど、不思議と喉はなんともなかった。

 なんとなく人恋しくなって、スマホをいじったりもしたけど、人恋しい割りに何もかもがうっとうしく感じるという、ひどく矛盾した気分になっていた。


 例えば、柚菜に電話をしたとする。多分、柚菜は喜んで俺の電話に応じてくるだろう。だけど、その声は聞いていたくても、意味のある会話をしたり返事を返したりするのがどうも面倒に思える。

 ひどいわがままだとは思うけど、病気の時ってのはひどく淋しがるか、わがままになるかするものらしい。

 この時の俺は人恋しさより面倒くささが勝った。


 結局、電話もしなければ、他の人から来た連絡にも一切返信せず、寝てしまうことにした。


 そう、風邪の時なんて寝て治すのが一番なんだよな。




 次に起きたのは夜の8時ごろだった。


「マサ兄ぃ。晩御飯は食べられそう?」


 妹が呼びに来た。


「……食欲はないかな」

「だよね。でも薬が飲めないから、何か食べないとね」


 特に仲が悪いわけじゃないから、病気の時くらいはお互いに優しくなる。普段もさほど仲がいいようには見えないらしいけどな。


「これ、買って来たから飲みなよ。水分も摂らなきゃダメだよ」


 そう言って妹が出したのは、病院帰りにも飲んだゼリー型の機能食。気が合うというより、定番なんだろうな。

 ただし、メーカーは違う。俺が買ったのは薬品メーカー系列ので、妹が買ってきてくれたのはスーパーのプライベートブランド品。価格は、まぁいいか。


「ありがと」


 これは気持ちがどうとかの問題じゃなく、妹の方が賢いんだろう。好意はありがたいし素直に受け取ることにした。


「スマホ鳴ってたけど、今日は電源切った方が良くない?」


 妹の言葉にスマホを見るとちかちか光っている。バイブにしてるからか、寝ている間は気付かなかったらしい。


「そうするよ」

「体も拭いたら? シャワー浴びるのもきついでしょ」

「だな……」


 妹は着替えまで用意してくれていた。オフクロの指図だろうけど、これも素直にありがたかった。だいぶ寝汗をかいていた。


 正直な話、怪我をしている頭の方が最近まともに洗っていないから気持ち悪くて仕方なかったけど、この熱では洗いきる自信がない。シャワーは明日以降まで我慢した方が良さそうだった。


「体拭くなら、準備してるよ」

「そうしてもらえると助かるよ」

「私は拭いてあげないけどね」

「そこまで頼まんよ。夫婦じゃあるまいし」

「そうだよね、拭いてくれるっぽい人もいるんだし」


 妹は立ち上がりながら爆弾を落としてくれた。

 俺はまだ彼女が出来たなんて、妹には一言も言ってない。


「拭いてくれるって、ここにいない奴にどうやって拭かせるんだっての」


 柚菜がここにいるはずもない。なにせ、門限はとうに過ぎている。

 ところが、妹はまったく別の文脈で喋っていたらしく、怪訝そうな顔をした。


「いるから言ってんじゃん」

「へ?」

「えっと……誰の話してるの? まさか、マサ兄ぃ、他にもそんな人いるの?」

「ちょ、ちょっと待って。どういう意味だそれ」

「どうって……あ、来たっぽいよ」


 返答もそこそこに妹が立ち上がった。

 部屋の外からは階段を上がってくる足音。それは聞き慣れた家族の足音ではなく、静かでどこか慎重。明らかに遠慮しているような足音だった。


「今、起きてます。遠慮なく拭いちゃってください」

「え、私が拭くの?」


 やけに聞き覚えのある声がして、俺は発熱以外の原因でくらくらしてきた。


「触れるのも嫌ならその辺に置いて戻ってきていただいても大丈夫です」


 妹が部屋の外に出て行く。


「嫌ってことはないけどさ。あなた、面白いね」

「ありがとうございます。バカな兄を持つと色々と学ぶことが多いんです」

「ちょっと待て! 色々とちょっと待て!」


 思わず俺が口を出すのと妹以外の声の主が顔を出すのが同時だった。


「お、意外と元気そうね」




希乃咲穏仙 ( 2022/10/09(日) 20:18 )