問題は帰りだと気付いたのは、カラオケもそろそろお開きというタイミング。


　あと10分で２時間が終了という頃、『天城越え』を熱唱する美波さんを置いてトイレに立っていた。

　カラオケ屋の狭いトイレで手を洗う。その水の冷たさに頭を刺激されたようで、帰りのことが頭をよぎった。



　あれ。もしかして、地元で美波さんと一緒の姿を見られるのって、致命的にやばくないか？



　ただでさえ、相手はあの美波さんだ。うちの高校のアイドルで、彼氏持ちで、家は地元の名士。


　俺がその辺をうろうろしたところで誰も気にもしないだろうけど、美波さんが彼氏以外の男とうろうろしていたら、目立つことこの上ない。


　それに気付いた瞬間、水の冷たさもあってか、俺は寒気が勢いよく背中を駆け上がって行くのを感じた。



　柚菜。



　狭い田舎のこと絶対に耳に入るはず。

　今日は親戚の結婚式でいないにしても、あんな電話をしておいて、その日の内に美波さんとデートしているなんて話が耳に入ったら。


『好きっていってもらえてすごく嬉しかった』

『この先は、直接会ってから言いたい』



　よく言えたもんだな！



　激しく自己叱責をしてから、俺はトイレの中で頭を抱えた。


　マジで何やってんだ俺。つい美波さんのペースに乗せられ、誘い出されて、楽しんで。帰りのことも気付かずにのんきにカラオケなんぞで歌ってる。


　別にやましいことはしていない。だけど、そう言いきるにはあまりに節操がないこの状況。


　アウトだろ。

　どう考えても。



　ひとしきり悶絶した後、俺は顔を洗った。

　そして、両頬を叩いた。多少は頭がスッキリした。


　とりあえずさっさと戻らないと。時間は待ってくれない。


　俺が部屋に戻ろうとすると、ちょうど美波さんが出てくるところだった。


「遅いよ、便秘くんか？」


　大量の荷物をどうにか持ち出そうとしたらしい美波さんが、ぶーぶーと文句を言う。


「追加料金払うんなら置いて帰ってもいいんだけどね」


　ああ、それもいい手だな、などと言おうものなら殴られかねない空気だったから、大急ぎで駆け寄り、荷物を受け取った。


「すんません」


　平謝りした俺が荷物を持つと、それ以上追求するつもりも無かったようで、美波さんは元気に拳を宙に突き出した。


「さて、まだちょっと歌い足りないけど、それなりに楽しかったし、次は腹ごしらえだ！」

「え!?」


　素で返してしまった。


「なによ？」


　美波さんは俺を細くした目で見ている。

　時刻は18時近く。明日は学校。ここは新宿。電車で地元まで乗り換え含めて約１時間。


「えーっと、帰るんじゃなくて？」

「空腹のまま帰れと？」


　ヤバいぞ。食事そのものに疑問を持ったと思われると空腹の苛立ちを向けられそうだ。


「……しょ、食事はいいんですけどね。食事後もまだ何か控えてるってことで？」

「嫌なの？」


　目が怖いんですよ。射るような視線なんですよ。


「いや……ただ、明日は月曜で学校ですし」

「まだ時間も余裕でしょ。日付が変わる前に帰れれば全然大丈夫じゃん」

「ちょっと待った」


　反射的に手を上げて遮る。


「その考え方はおかしいですって」

「えー、なんでよー」


　いきなり口を尖らせて可愛らしい声に切り替わっている。いやいや、もう騙されませんよ。


「普通の高校生の発想に午前様じゃなきゃオーケーとか無いでしょ」

「いつの時代の高校生よ」

「時代は関係無いですって。ちなみにうちにゃ門限って物もあるんです」

「まじ？ おかしくない？」

「おかしくないんですって」


　ヤバいよこの人。色々とズレてる。いや、世間的には俺がズレているのかも知れない。

　だけど、未成年が日付を跨いで遊び回って怒られないような家庭環境に俺は育ってない。


「そりゃね、社会人とかならそれでもいいかも知れませんよ。でも俺には無理です」


　無意識に俺は地雷を踏んだかも知れない。美波さんには社会人の彼氏がいる。そんな人と付き合っていれば、そうなることだってあるだろう。

　そうでなくても遊んでいる印象が強い人だから、うちみたいなくそマジメな家庭からは想像も出来ない自由さで外出してるのかも知れない。


　そんな思い込みが、俺にさっきの言葉を言わせた。

　美波さんは俺の言葉に一瞬目を細めると、真顔になって数秒ほど反応しなかった。


　何かまずいこと言ったかと、俺が思い始めると、美波さんは憑き物が落ちたような透明な顔になって微笑んだ。


「……そうだね。そうなんだよね」

「……」


　どう返していいかも解らず立ち尽くしていると、美波さんの澄み切った笑顔が恐ろしく綺麗に見えて、胸を鷲掴みにされたような気がした。


「いやぁ、まーくんといると新しい発見があっていいねぇ」

「……なんすか、それ？」

「いいのいいの。こっちの話だから。ま、それはそれとして」


　美波さんは自己完結して歩き出した。


「今日はおとなしく帰るにしてもさ、おなか空いたまま電車乗るの嫌だし、なんか食べて行こ。それもNG？」


　声が明るかったから、俺はとりあえずそれに乗っかることにした。よくわからなかったけど、機嫌を損ねてなけば、それでいい気がした。


「全然オッケーっす。昼は割り勘だったし、ここも割り勘の約束だから、晩飯くらいは出しますよ」

「おっ、さすが勤労少年。ここも出します、とは言わない少市民っぷりが素敵よ」

「まっすぐ帰ります？」

「うそ。ゴチです」


　美波さんは軽くスキップをしてる。リアルスキップなんて見るの何年ぶりだろ。ってか、あの年でする人初めて見るよね。