20話
夏を飛び越えて、秋が始まり、体育祭などの学校行事もあらかた終えた。受験生にとっての正念場に差し掛かる頃だった。
あやめは相変わらずの生活をしていた。とりあえず授業は聞き、宿題も手をつけ、塾にも欠かさず行っている。ただ、周りの受験生のような、切羽詰った様子はまったくなかった。特別に勉強ができるわけでも、効率のよいことをしているわけでもなかった。
「お母さん」
10月半ばの日曜日。あやめはキッチンで洗い物をする母に声をかけた。
「推薦受けたいんだけど」
あやめの言葉に幅は驚いて振り向いた。泡がフローリングの床に飛び散った。思わずあやめは顔をしかめた。いつもフローリングを傷つけないようにとうるさく言っている母が掃除を終えた床に洗剤の泡を飛ばしたからだ。
「泡飛んだよ」
「先生には言ったの?」
母の問いかけにあやめは頷いてみせた。母はそんな話聞いてないという表情でため息を一つ吐いた。
「ダメだった?」
「だって…あなた、ろくに勉強してないじゃない」
「学校じゃいつも優等生で通ってるよ」
母は床に飛び散った泡をテーブルの上の布巾で拭った。出しっぱなしの蛇口からは水が絶えず流れている。
「夏休みの課外も出なかったくせに」
嫌味ったらしく言う母にあやめは堂々と反論をする。
「テストの成績は悪くないって言われてるし、内申も大丈夫だって、先生は言ってる」
「やってみればいいじゃない」
母は吐き捨てるように言った。どうしてこんなに冷たい反応なのか、あやめにはまったく理解できなかった。
「もっと上を狙う気ないの?」
洗い物に戻りながら静かに言った。水の音と食器の触れ合う音で聞き取りにくかったけど、何とか音を拾ったあやめは、ないとだけ小さな声で告げると、自分の部屋にこもった。
推薦を受ける事を告げてから更に時は過ぎていった。
窓辺の桜の木がざわついている。葉もすっかりと色が変わってしまった。
あやめはもうすぐ丸裸になる桜をぼんやりと眺めていた。何もしないで、昔の思い出に浸るのがあやめは好きだった。部屋にロックの激しい曲調。身体をかすかに揺らしてリズムを取りながら、あやめの思考はいつものように、アイリスの方へと移動していた。
(毎週でも行けたらいいのに)
何度もそう思った。
『好き』
マスターに言われてから、自分の気持ちを再認識していた。
(確かにシュウジに恋をしているらしい)
それも、なかなか恋心と気付くには淡すぎる想いだった。シュウジは大人で、自分は未だに高校すら卒業していないガキ。どうせ叶うはずはないと、よく分かっていた。
「玲香に惚れてる」
シュウジを思い浮かべる度に、玲香の顔も一緒に浮かぶ。あやめは、自分が玲香にヤキモチを焼いていることも気付いていた。その気持ちを否定することはできない。シュウジが好きだということも。この際、素直になってしまおうと思った。
「日曜……か」
カレンダーを見た。財布の中を覗く。髪を手櫛で梳かす。鏡に映ったあやめの髪は、肩まで伸びていた。綺麗な髪なんだから、伸ばせばいいのにと、いつも周りに言われていた。ただ、自分で髪型をアレンジできないからと、必ず美容院では短く切ってもらうようにしていた。伸ばす決心をしたのは、つい最近のことだった。
「けっこう伸びたなぁ」
肩に当たる毛先をいじりながら、財布をポケットにしまう。階段を下り、キッチンを覗くと母は冷蔵庫の整理をしていた。今日の夕方から、近所のスーパーでセールが始まるらしい。それに向けての整理をしているのだろう。買い貯めが好きな母は、セールに出かける前に冷蔵庫チェックを怠らない。あやめはやはり何も言わずに家を出た。夕飯までに帰ればいいと考えながら。