第五章
19話
 注文の料理が運ばれてからも、二人の会話は止まらなかった。ときどき聞こえるシュウジの笑い声を聞く度、あやめは胸の奥に痛みを感じていた。


「あやめちゃん、おかわりはいる?」


 そんなあやめにマスターが優しく言った。そこで初めていつの間にかカフェラテを飲み干していたことに気付いた。


「おかわり、どうする?」


 マスターはもう一度尋ねた。しかし、あやめは首を横に振ると、財布をポケットから取り出した。


「今日はもう帰ります」


 ここ最近は遊びに行っていなかった。財布には貰ったお小遣いがそのまま残っていた。千円札を出し、おつりを受け取る。出した千円札はピン札だった。シュウジと玲香がそのピン札を見た。あやめは何だか、自分がいいとこのお嬢さんにでも見られているような気がしてならなかった。一生懸命働いている二人の横で、自分は親にもらったお金を惜しみなく使っている。そのことが、あやめを余計に辛くさせた。


 あやめはおつりをしまい、そそくさと店を出ると、むんとした熱気が身体中を攻めてきた。何だか泣きたい気分になって、階段の下にうずくまり、音もたてずに泣いた。

 シュウジの玲香を見る眼差しが悔しかった。どうしてあんなに憧れの目をするのか。尊敬と愛情が感じられた。

(どうして、どうして、どうして…)

 あやめの頭の中に、どうしてがぐるぐる回り出した。




 カランカランとベルの音がして、誰かが店から出てきた。


「あやめちゃん」


 名前を呼ばれ、あやめが顔を上げると、そこにマスターがいた。優しい笑顔のマスターは、あやめの隣に腰を下ろした。


「あやめちゃんはシュウジが好きなんだね」


 マスターは店内に聞こえないように小さい声で言った。あやめははっとしてマスターの顔を見た。


「自分じゃよく分からないだろうけどね」


 また、涙が溢れてきた。

(なんでマスターの優しさに触れると、泣きたくなるんだろう?)

 いつかの夜もあやめはマスターの優しい言葉に涙した記憶があった。


「シュウジはぶっきらぼうだし、あやめちゃんのこと子供扱いしてるように見えるけどね。あれでけっこうあやめちゃんのこと気に入ってると思うよ」

「なんでわかるんですか?」


 あやめはようやく声を絞り出した。マスターはしばらく息を止めていたようだったが、すぐにぷつんと弾けたように笑い出した。


「そりゃ、あいつの親父だからだよ」


 レンガ造りの階段の上を一匹の蟻が歩いて行くのが見えた。あやめは、それを目で追ったが、すぐにレンガの隙間に入り込んで見えなくなってしまった。隙間からは、ところどころ緑の草が顔を出していた。


「母親がいないんだよ。シュウジには」

「母親?」


 マスターは空を仰いだ。ビルのコンクリートの間から見える空は、細長く、一本の線を描くようだった。


「バツイチなんだよね」


 苦笑いをしながら、マスターはあやめを見た。少しだけ恥ずかしそうだった。あやめには、その苦笑いが、悪戯がばれたときの子供のように見えた。


「シュウジがまだ保育園くらいの頃かな。あいつの母親、他に好きな男ができたって言って、家を出てったんだよ。まぁ、学費は全部負担するからって言ってくれたから、僕も文句一つ言わずに、はいどうぞ…ってね」


 あやめは思わず笑ってしまった。笑っていいことではないのに、マスターの話しっぷりを見ると、どうも笑わずにいられなかった。


「さっぱりしすぎだよね。お金で手を打つなんてさ。でもね、学費はけっこう重要だよ? 小・中・高と、お金はいつも付いて回るんだから」


(学費)

 その言葉の意味を何とかして噛み砕こうと思った。あやめは母親と父親の顔を浮かべた。二人が、自分に投資しているお金。あやめはそう考えてみた。


「親御さんは大切にしないとね。 おっと、話が逸れちゃったね」


 マスターはまた笑った。あやめもそれにつられて笑ってみる。

(本当、マスターは不思議な人)

 あやめの頭を撫でてから、マスターは店に入っていった。また来てねとだけ言い残して。あやめは取り残されてからも、しばらくレンガの階段の上に座っていた。どうしても立ち上がる気になれなかった。身体の骨を抜かれたように感じた。指先が、自分の指先でないように思われた。





(本当に好きなのかな)

 あやめはまだその言葉の意味を実感できずにいた。




■筆者メッセージ
あけましておめでとうございます

本年もよろしくどうぞです
希乃咲穏仙 ( 2022/01/02(日) 10:43 )