第五章
17話
 八月の最終日。あやめはこっそり家を抜け出し、アイリスへと足を運んだ。母親は朝から暑い暑いと言っては、居間のソファでぐったりしている。

 昼ごはんを食べた後、あやめは母親に気付かれないように玄関の扉を開けた。

 蝉しぐれの激しい公園の前を通り過ぎ、駅前の路地裏へ急いだ。蝉が小さく鳴いて、あやめの頭の上を横切った。見上げると、蝉は銀色に輝く太陽の奥に消えていった。


 アイリスのある路地裏は一向に日が当たらないようで、ひんやりとした空気が流れ、そこだけ時が止まったように思えた。


 あやめは階段を上り扉を開ける。カランカランとベルが涼しげな音を立てる。


「こんにちは」


 そっと扉から顔を出し、店内を見渡す。

(お客さんはいないな)

 もう昼の二時過ぎになっていたから、ランチを目当てにやって来た客は、とっくに帰ってしまったころなのだろう。


 しばらく沈黙が流れた。あやめは、一瞬、店を間違えたような気になった。しかし、すぐにカウンターの奥から懐かしいマスターの顔が見えた。


「おや、いらっしゃい。久しぶりだね」


 久しぶりに見るマスターの笑顔が、さっき見上げた太陽のように感じられた。あやめは軽く会釈しながらカウンター席に座る。マスターはすかさず冷たい水とおしぼりを出してくれた。


「夏も終わりだねぇ」


 マスターはニコニコしながら、ピカピカのグラスを一つ、棚から出した。


「今年はどこか行ったの?」


 あやめは苦笑いをしながら首を横に振り。マスターは勉強があるもんね、と言いながら、グラスによく冷えたカフェラテを注ぎ、あやめの前に置いた。

 いつものようにストローを立てて、一口飲んだ。

(ああ、この味だ)

 あやめは思わず微笑んだ。最近はコンビニの甘ったるいカフェラテか、麦茶ばかりだった。マスターの作るカフェラテが、いやに美味しかった。




 しばらくマスターと雑談にふけった。今年はやたら暑かっただとか、勉強の調子とか、母親のヒステリックな性格だとか。あやめは、よく笑った。マスターがユーモラスな話し手だったからだろうか。

(こんなに笑ったのは何日ぶりかな?)

 話しながら、そんなふうに思った。



希乃咲穏仙 ( 2021/12/21(火) 01:32 )