17話
八月の最終日。あやめはこっそり家を抜け出し、アイリスへと足を運んだ。母親は朝から暑い暑いと言っては、居間のソファでぐったりしている。
昼ごはんを食べた後、あやめは母親に気付かれないように玄関の扉を開けた。
蝉しぐれの激しい公園の前を通り過ぎ、駅前の路地裏へ急いだ。蝉が小さく鳴いて、あやめの頭の上を横切った。見上げると、蝉は銀色に輝く太陽の奥に消えていった。
アイリスのある路地裏は一向に日が当たらないようで、ひんやりとした空気が流れ、そこだけ時が止まったように思えた。
あやめは階段を上り扉を開ける。カランカランとベルが涼しげな音を立てる。
「こんにちは」
そっと扉から顔を出し、店内を見渡す。
(お客さんはいないな)
もう昼の二時過ぎになっていたから、ランチを目当てにやって来た客は、とっくに帰ってしまったころなのだろう。
しばらく沈黙が流れた。あやめは、一瞬、店を間違えたような気になった。しかし、すぐにカウンターの奥から懐かしいマスターの顔が見えた。
「おや、いらっしゃい。久しぶりだね」
久しぶりに見るマスターの笑顔が、さっき見上げた太陽のように感じられた。あやめは軽く会釈しながらカウンター席に座る。マスターはすかさず冷たい水とおしぼりを出してくれた。
「夏も終わりだねぇ」
マスターはニコニコしながら、ピカピカのグラスを一つ、棚から出した。
「今年はどこか行ったの?」
あやめは苦笑いをしながら首を横に振り。マスターは勉強があるもんね、と言いながら、グラスによく冷えたカフェラテを注ぎ、あやめの前に置いた。
いつものようにストローを立てて、一口飲んだ。
(ああ、この味だ)
あやめは思わず微笑んだ。最近はコンビニの甘ったるいカフェラテか、麦茶ばかりだった。マスターの作るカフェラテが、いやに美味しかった。
しばらくマスターと雑談にふけった。今年はやたら暑かっただとか、勉強の調子とか、母親のヒステリックな性格だとか。あやめは、よく笑った。マスターがユーモラスな話し手だったからだろうか。
(こんなに笑ったのは何日ぶりかな?)
話しながら、そんなふうに思った。