12話
六月。梅雨の最もジメジメする季節。みんなはこの時期が嫌いだと言う。しかし、あやめはそんなに嫌いでもなかった。雨の日は街の騒音が雨音で消える。だから静かで好きだった。
「ママ、ちょっと出かけてくるね」
あやめは台所で何かの歌を口遊さむ母の背中に言った。母は振り向き、少し何か言いたげな表情を浮かべたが、そのまま頷いた。あやめは行ってきます、と小さな声で言い、玄関へ向かった。
あの金曜の夜、あやめは母親にあの喫茶店のことを話した。たまたま散歩で見つけ、そこの店主と仲良くなったと話した。あの日、夜の九時半頃、家に帰ると両親が居間で何か話し込んでいた。母は泣いていた。父は帰ったばかりらしく、スーツ姿のままだった。あやめはわざと明るい声でただいまと言って、二人の前に座った。それから、あの喫茶店の話をした。
母は勉強はしっかりやってほしいと言った。父も将来絶対に無駄にはならないと言って、あやめを諭した。あやめは何も言わなかった。
それ以来、家族の間で進路が話題に上ることはなかった。進路や勉強のことを口にするのは、学校や塾の先生との間だけだった。
あやめは成績を維持し続けた。模試の成績も、定期テストも、まずまずのようだった。部活を辞めた途端、他の子の成績が奇跡的に伸びるようなことはなかった。今までの積み重ねだと、みんなは言った。あやめは笑いながら、そうなんだと言うだけだった。
庭の桜はすっかり葉だらけになっていた。もうすぐ本物の夏が来る。その頃には、桜の葉も濃くなっているだろう。
あやめは葉っぱだけの桜の木も好きだった。春と夏とのギャップが好きだった。
「シュウジ…シュウジ…」
あやめは呟いていた。気付くとよくその名前を呟いていることがある。あの日、あの金曜日以来、店に顔は出していなかった。かれこれ一ヶ月以上、行っていないことになる。母や父に話してから、何だか行ってはいけないような気がしていた。感覚的過ぎて、どうしていけないのかという理由などまったくなかった。ただ、何となく。それだけだった。
ポケットの中のスマホが音をたてた。すぐにスマホを見ると、母からの連絡だった。
『遅くならないでください』
あやめはすぐに返信した。一言、わかった、とだけ文字を打ち込んで。
ついでに時間を見た。午前十時五十分。お昼はランチでも食べて行こうかと考えた。六月分のお小遣いはそのままそっくり残っていた。それというのも、記述模試とマーク模試があったために、土日は見事につぶされ、遊びに行く余裕がなかったからだ。
学校帰りの遊び時間などは、課外授業で削られていく。授業を終えると、真っ直ぐ家に向かうしかなかった。今日は久々の休日だった。だから、久々にあの店に顔を出そうと思った。
(マスターと世間話でもして、そして…もしかしたら、シュウジに会えるかも)