第三章
9話
「最近、勉強はしてるの?」


 母親はあやめの顔を覗き込んで言った。金曜日の夜のことだった。あやめは、学校から帰ると、見るわけでもなくテレビをつけ、たまたまチャンネルが合わされていた、特に興味のないニュースの音声だけを聞いていた。しかし、音は耳を素通りしていく。あやめはまったく別のことを考えていた。母は電気代を気にし、テレビをすぐに消した。ニュースキャスターの顔が一瞬だけ歪んで消えた。


「ねえ、聞いてるの?」


 あやめは顔をあげる。母はいつもの教育ママの顔をしている。あやめはゆっくりと息を吐き出した。


「塾の先生に何て言われてるか知らないけど、もう四月も終わりなの。分かってるの?」


 ソファに身を沈め、あやめは大あくびをした。母の声は聞こえるけど、あやめの思考はどこか別の世界を彷徨うようだった。ソファの手ごろな柔らかさが心地よかった。


「周りのみんなはこれから先、どんどん伸びていくのよ。浪人生だっているのよ。このままじゃ追い越されるわよ」


(そんなこと分かってるし)

 五月が過ぎれば、部活を引退した子たちは勉強に精を出すだろう。模試の順位には浪人生も絡んでくるし、あやめが後ろの人に追い越される可能性は捨てきれない。いや、あやめ自身、追い越されるだろうと確信していた。あやめもある程度の成績を維持している。維持してはいるが、それだけだ。特別に秀でた得意教科があるわけではない。特別に勉強を頑張っているわけでもない。あくまで、普通より少しできる。ただそれだけだのことだった。



希乃咲穏仙 ( 2021/10/29(金) 23:42 )