第三章
10話
 母はあやめの隣に座った。ソファが母の重みの分だけ少し揺れる。あやめはこれから母に何を言われるか察しがついた。


「中間テストまで一ヶ月くらいでしょ? それが終われば期末テスト。夏休みまでには夏期講習の申し込みもしなきゃいけないし。センターだって一月の真ん中あたりじゃないの。受験生っていうこと、もっと先まで意識しなきゃだめなのよ」


(やっぱり)

 あやめは頭が痛くなった。

(いつもこれだ)

 息も詰まる思いだった。母はまた、眉間にしわを寄せ、聞いてるのと尋ねた。あやめは消えたテレビ画面の奥に映るモノクロの自分を見つめていた。


「いい部屋もあげてるし、ママはご飯にも気を使ってるわ。塾のお金だって出してるのはママとパパなのよ。それ相応の努力はしてもらわなきゃ困るの。分かる?」


 あやめは立ち上がった。もう嫌だった。いつからこんなに母親が鬱陶しくなったのだろう。中学生の頃までは、文句を言いつつも、母親の言うことに従ってきた。それが、今になって急に逆らいたくなった。母親が間違ったことを言っているわけではない。すべて正しいことだ。あやめもそれをしっかりと把握している。それでも、どうしても従いたくなかった。

 あやめは何も言わずに居間を出ると、玄関を飛び出した。後ろから母の声が聴こえた気がした。それでもかまわず、あやめに走った。外はすっかり暗くなっていた。何度もつまずいて転びそうになったが、とにかく走った。気付けば、路地裏のあの喫茶店の前まで来ていた。

 青白い電灯に照らされ、喫茶店の看板が文字を浮かび上がらせている。あやめは初めてその看板の文字を眺めた。


「アイリス」


 ゆっくり読み上げた。手作りらしい温かみのある文字だった。あやめは財布を持っていないことに気付いた。そして、靴ではなく、スリッパを履いて出て来てしまったことにも気付いた。

(走りにくかったわけだ……)

 あやめは両の頬をぺしぺしと二回叩いた。自分が動揺していることがよく分かる。母親にあんな態度を取ってしまったことも悔やまれ、すっかり自己嫌悪に陥っていた。

 お金がなければ店には入れない。いくらマスターが優しくても、お金を払えない客を、どうして相手にしなければならないのか。だいたい、自分はこの店の常連などではない。たまたま店主と気が合い、息子を紹介してもらい、名前を教えあった程度だ。知らず知らずのうちに、ここの店に助けを求めていた自分が嫌になった。

 あやめは入り口の階段に座り込んだ。四月も終わりだったが、今晩は少し冷え込む。上着を何も持って来なかったことを後悔しつつ、肩を抱く格好でうつらうつらと微睡んでいった。



希乃咲穏仙 ( 2021/10/29(金) 23:45 )