第二章
5話
 四月の半ば。筒井家の桜は随分と散ってしまっていた。生命力を失った花びらは、微かにその色を身体に留めながらも、地面に落ちて泥まみれになっていた。もうあの美しさは見る影もなかった。


 初めてあの喫茶店に行ってから、もう一月が過ぎようとしている。あやめはあの日から喫茶店へは一度も行っていない。何となく、行きたいようで、行きたくないような妙な気分だった。自分でもはっきり分からなかった。ただ、あのシュウジという男の存在が気になっていた。

 もう一度あの店に行けば、マスターに会えるし、もしかしたらシュウジという男にも会えるかもしれない。しかし、勉強があるし、母もいる。騙すのにも気が引けるし、レイの名前を使うのも申し訳ない気がしていた。



 午後一時。昼食は適当に昨夜の夕飯の残り物を食べたあやめは数学の問題集の続きをやろうとしていた。母は今、旧友らと一緒に芝居を見に行っている。元演劇部の血が騒ぐらしく、誘われては、ここから三駅ほど先の劇場へ足を運んでいる。帰りは夕方頃だと言っていた。


「……日曜日だし」


 あやめは一人呟いた。

 机の引き出しを開けると財布が転がっている。ここのところ、どこにも遊びに行っていなかった。三年ということで、進学校であるあやめの高校の生徒のほとんどは、休日は塾、もしくは図書館などで自習をしていた。あやめは特に上の大学を目指す気もなかったから、月に少なくとも一度のペースで入っている模試さえしっかり受けていれば、何とかなるだろうと思っていた。塾は自分の授業が入っている日しか行っていなかったし、学校の予習もそこそこに、大好きな音楽を聴いていることが多かった。今も部屋には、お気に入りのロックが流れている。女の子にしては、過激な曲が好きだねと、よく言われていた。


「日曜日だもんね」


 もう一度呟いた。二つ折りの財布をチェックする。前までは千円札が五枚だった。しかし、そのうちの一枚は、一月前にあの喫茶店でカフェラテとランチを食べたときに使ってしまった。だから今では千円札が四枚。まだ今月はお小遣いを貰ってない。母はたまにお小遣いのことを忘れる。催促しない限り、一円も貰えずに終わることさえある。それでも、今の財布の中身は、一人でどこかに行くには十分だった。


 クローゼットを開け、薄い若草色のスプリングコートを手に取る。ポケットに財布とスマホを突っ込む。栗色の短い髪を整える。少し気取って唇に桃色の口紅をのせてみた。つるりとした光沢と、桜の花びらのような色が唇に残った。



希乃咲穏仙 ( 2021/10/19(火) 21:05 )