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文庫本を四分の一ほど読み終わった頃、ふと入り口のガラスが揺れたような気がして、俺は顔を上げた。視線の先、入り口の扉越しにこっちを見ていた上村さんと目が合った。
「………」
ぽんっと音が聞こえそうな勢いで顔を真っ赤にした上村さんは慌てて後ろを向いた。何をしているんだか。
その様子がちょっと可愛くて、つい笑ってしまう。
恐らく栞を取りに来たのだろう。俺はカウンターを立ち、入り口の扉を容赦なく開けてやった。
「いらっしゃいませ」
「あ……、こ、こんにちは」
ぎこちなくこちらを向き、上村さんは困ったように笑顔を浮かべた。紺色のコートに少し大きめの茶色いバッグ。相変わらずシックな出で立ちが良く似合っている。
「栞?」
「あ、はい」
「ちゃんと置いてあるよ。とにかく中に入って。寒かったでしょ」
「あ、す、すみません」
(いやいや、店に入るのにすみませんも無いだろうに)
おずおずと上村さんは店の中に入ってきた。
「ええと、はい、どうぞ」
俺はレジの横に挟んでおいた栞を引き抜いて上村さんに手渡した。
「ああ、良かった」
栞を受け取った上村さんは、心の底からほっとした表情を浮かべた。そして、それをバッグの中に仕舞い込んだ。
「気付いて良かったよ」
「ホントに、ありがとうございました」
ぺこりと一礼する上村さん。
「いやいや、こっちこそ連絡もしなくて」
謝罪の意味を込めて俺も頭を下げる。
そして、二人同時に顔を上げ、なんだか気恥ずかしくなって笑いあってしまう。
(なんだ、この気まずい感じは)
上村さんの方も視線を彷徨わせ、ぐるりと店内を見回した。そして、改めて感動したように息を一つ吐いた。
「……沢山、ありますね」
「ま、一応本屋を名乗ってるからね」
「あ……、そうですよね。あの、ちょっと見て言っても良いですか?」
「もちろん。届かない本とかあれば声を掛けてね」
狭い店内だが、陳列棚の高さは結構ある。一番上の本になると、俺でも台が必要だ。頭一つ分は俺より低い上村さんでは、まず届かない高さだ。
上村さんは頷いた後、店内をぐるりと巡り始めた。何となく、その姿を目で追ってしまう。
「くしゅん」
小さなくしゃみをする上村さん。俺が顔を上げると、上村さんは恥ずかしそうに鼻を押さえていた。埃かとも思ったが、指先が随分と赤かった。
(ひょっとして、結構長い間外から様子を伺っていたのかな)
「お茶、飲んでいく?」
「え?」
「どうせ暇だし、温かいお茶の一杯でもいかが?」
「でも、悪いですし」
俺は上村さんの言葉に構わず、立ち上がった。
「どうぞ。ストーブもあるから、暖かいよ」
「いや、あの」
「お茶、入れるから、座ってて」
俺は和室に上がり、ちゃぶ台の湯飲みを一つ手に取った。
「あ、あの、し、失礼します」
暖かさの誘惑が勝ったのか、俺に気を使ってくれたのか、上村さんはぺこりと一礼してから椅子に腰掛けた。爪先が自然とストーブのほうに寄って行くところを見ると、やっぱり随分寒かったんだろう。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
そう言って受け取った湯呑みを両手でしっかりと包み込む。その暖かさを少し味わってからずずっと一口飲んで、ほうっと幸せそうなため息をつく上村さん。
「今度から、遠慮しないでいいからね」
「あっ……はい」
恥ずかしそうに俯いてしまった。俺は和室の上がり口のところに座布団を引いて腰掛けた。静かな沈黙が少しだけあって、それからおずおずと上村さんは口を開いた。
「あの、昨日は、すみませんでした。恥ずかしいところをお見せしてしまって」
「ああ、気にしてないよ」
「私、取り乱しちゃって……。しかも送って頂くのまで断っちゃって」
「うん、誰だって気が乗らないときはあるから」
気にならないわけじゃないけど、立ち入ってしまうのも無礼と言うものだろう。
「ありがとうございます」
頭を下げる上村さん。そんな大層な事を言ったつもりはないのだけど。
「そう言えばさ、上村さんは小説家になるのが夢なの?」
「えっと……」
「ああ、ごめん。立ち入った事だった?」
「いえ、そういうわけでは……。夢……でした。でも、もう今は書いていないから」
(昨日もそんなようなことを言っていたよな)
「前はそうだった、ってこと?」
「はい、下手の横好きですけど」
「誰だって最初はそうだよ。そこから、好きこそ物の上手なれに持っていくんじゃないかな」
「そ、そうですね」
「そうか、小説家を目指していたのか、凄いなぁ」
「凄いですか?」
良くわからない、そんな口ぶりだが表情は少し嬉しそうに見えた。きっと、本当にそこに向かって進んでいたんだろう。そんな風に思った。
(それに引き替え……)
こっちは一年先の進路さえ霧の中と言う状態。そう思うと、上村さんが眩しいようにさえ感じてくる。
「それじゃ……」
なんで止めちゃったの、そう尋ねようとした時だった。不意に入り口のドアが開いた。
「こんにちはー」
はきはきとした喋り方。明るいグレーのスーツ姿で店内に元気良く入ってきたのは、良く知った顔だった。
「あぁ、佐々木さん、こんにちは」
綺麗に切り揃えられた髪型と薄化粧。素の顔立ちがいいせいか、それでも充分に美人だった。
「おっと、青春真っ只中だったかな?」
悪戯っ子のように意地悪な笑みを浮かべつつ、佐々木さんは上村さんと俺を交互に見る。本人としては茶目っ気のつもりなのだろうが、如何せん相手が悪い。上村さんは途端に真っ赤になって俯いてしまう。
「あ、この人は……」
気にしないで、と言う前に上村さんの限界が来た。
「あ、あのっ、私、帰りますっ。長々とお邪魔しました」
ぴょんと立ち上がり、それから深々とお辞儀をし、上村さんは飛ぶ様に店から走り出て行った。
「あらら〜。可愛らしいね」
いささか拍子抜けしたような顔でそれを見送る佐々木さん。相手を選ばずに茶目っ気をぶつけるのは佐々木さんの良いところであり、悪いところだと思う。
「最近の子は、もっと進んでるかと思ったけど、ああいう子もいるのねぇ」
「初対面で、いきなりからかうからですよ」
「だって、あんな場面を見ちゃったら、からかいたくなるでしょう?」
気持ちは分からなくもない。しかし、それを本能の赴くままに突っ走ってしまうのは、また別の話だと思う。
「挨拶するとか、とりあえず自己紹介しておくとか」
「会話はテンポなのよ」
(ダメだこの人は)
暖簾に腕押しとはこういう気分なのだろうか。
「クリスマスはあの子と過ごすのかしら?」
親父臭いからかい文句は綺麗に流すことにした。
「訳の分かんない事を言わないでくださいよ。で、御用は?」
「……つまんないわねぇ。先生は、いる?」
「奥で仕事してると思いますよ」
「そ、上がらせてもらうわね」
「どうぞ」
「覇気の無い若者ねぇ」
佐々木さんはため息を吐きながら、和室に上がって奥に入っていった。
彼女の名前は佐々木 久美と言う。作家、十六夜 華月の、つまりは伯父の担当さん。年は俺より大分上だろう。確か、結婚もしていたはずだ。それなのにバリバリ仕事もし、家庭のこともこまめにしているらしいから大したものだと思う。一人で暮らしていても、家事が全く成り立っていない人もいると言うのに。
誰とは言わないけど。
佐々木さんが愚痴をはいているところなんて見た事がない。それどころか、うちに来るときにはいつも嬉しそうだった。
今日は多分、文芸雑誌で連載している作品の原稿でも取りに来たんだろう。普段、バイトである俺に店をまかせっきりで引っ込んでいるだけの事はあって伯父は優良作家らしい。楽で仕方が無いと、佐々木さんが以前言っていた。