01
声に出してまで、伝えたいものなんてない。
黒板の上で削れるチョークと小さなざわめき。
先生の声さえなければ、授業中の教室ほど愛しいものはない。
梅雨明け直後の少し涼しい風が窓際の席に座る私の髪を揺らして遊ぶ。
午後の授業、気だるさと眠気を伴い、より一層の静寂を生み出してくれた。
前を向いて、教科書を開く。
ノートに鉛を擦りつけていく。
必要なのはそれだけ。
自分の意志を伝えるために必要なものが言語なら、私はそれを不必要だと判断していた。
言葉が足りない。無口。おとなしい。これが私のこのクラスでの設定だろう。
それで、充分だった。
はずなのだけど。
「じゃ次は、小坂さん。お願いね」
「……はい」
これさえなければ。
私が唯一声を発しなければならないのはこの現代文の授業。
気に入られてなのか、はたまた何かの策略、もしくは陰謀か。
毎時間、教科書を数ページ読むのが役割になってしまっていた。
たんに、無口な生徒に見せ場を作ってやろうとした、優しい先生の計らいなのだろうけど、余計なお世話以外の何物でもない。
椅子を引けば、乾いた音が静かな教室に響く。
指定されたページに視線を落とし、軽く口を開いて小さく息を吸った。
そして、それを吐き出す瞬間。
発した声は、それよりももっと乱暴で大きな音にかき消されてしまった。
「うーっす。……あれ? 何でセンセがいるんだよ? 何、現文?」
黒板の反対側。
教室の奥の扉を足で開けた彼は、心底驚いたらしくその動きを止めていた。
「授業変更になったのよ。ほら、早く席につきなさい」
「マジか。知らんかった」
短い茶色の頭を掻きむしって教室に入った彼は、読むタイミングを失って立ちつくす私を目でとらえた。
その口元がわずかに緩んだのは、きっと見間違いだろう。
だって、彼と私にはまるで接点がなかった。
席が前後だという些細なこと以外はない。
「やっぱりね」
「うん、そうだよね」
小さなざわめきは彼の登場で騒音となりつつあった。
数名が顔を見合わせ、笑っているのがいやでも目に入る。
「現文だけは必ず出るよね。やっぱ、あれってホントなの?」
小さいけれど、はっきり聞こえる声。
あの声たちの言いたいことを私は知っている。
私がこの教室で無口のおとなしい子という設定なら、彼は現文の先生に恋する不良生徒という設定だった。
遅刻早退無断欠席は当たり前。生徒指導室にひっきりなしにお呼ばれされている彼は、なぜかこの現代文の授業だけは真面目に受けていた。
一部では有名な話だ。
彼は現代文の先生に恋をしているから、この授業にだけは参加しているのだと。
そんな恋する不良生徒は空席同然の私の前の席に腰を下ろした。
再び小さくなったささやきが耳をくすぐる中、彼はそんなことは我関せずと教科書を開く。
整髪剤で整えられた短髪が動くたびにゆらゆらと揺れる。
教科書を読むタイミングをすっかり見失ってしまった私は、見慣れた後姿を見て小さく息を吐いた。
いつも、教科書を読むたびに彼の後姿が目に入った。
それは私の中ですっかり見慣れた景色となっていた。
他の授業なんてまともに出たことがないくせに、恋とはそこまで人を駆り立てるものなのだろうか。
「じゃ、小坂さん」
そんなことを考えているうちに名前を呼ばれ、教科書に視線を戻した。
興味もない文字の羅列を読み上げるために、また小さく口を開いて。
「はい、ありがとう。次は」
自分の職務を全うし、ようやく席につくことができた。
さっきのざわめきはもうすっかりおさまって、これでようやくいつもの愛しい静寂が訪れる。
はずだったのに。
「助かったよ、間に合って」
訪れかけた静寂を破ったのは、ざわめきよりもささやきよりも小さな彼の声。
わずかに空気を揺らしたその声に、私は反応することなく聞かなかった振りをした。
どうやら、彼が恋する不良少年という設定はあながち間違いでもないらしい。
そんなにあの先生が好きならそれなりの行動を取ればいいのに。
そんなことを思いながら、黒板に視線を向ければ。
目に入ったのは黒板の切れ端と、なぜかこちら向いた彼の顔だった。
「なぁ、何でしゃべんねぇの? せっかくいい声してんのに。もったいないじゃん」
静寂を壊す、彼の声。
それは、私に向けられていた。
「オレさ、お前の朗読聞いてると落ち着くんだわ。後ろからきれいな雪が降ってくるみたいな気がしてさ」
シャーペンがかろうじて指に引っかかっていた。
この人は何を言っているのだろう。
朗読? 声? 雪?
「間に合ってよかった。マジで損するところだったわ」
じゃ、と彼は言いたいことをいって前に向き直ってしまった。
残された私は状況を理解するのに時間が必要だった。
どうやら彼は私の声を褒めてくれたらしい。
雪にたとえて。
どうやら彼は安心したらしい。
私の声を聞くことができたから。
「……っ」
上りつめていくものが頬を染めていく。
初夏の風は涼しいけれど、そんなのはまったくをもって無意味だった。
爪先から頭のてっぺんまでおかしな音がする。
それが静寂に包まれた愛しの時間を壊していく。
手に汗が滲む。
今、教科書はどの辺りまですすんだのだろう。
耳障りな声は不思議なくらい頭に入ってこない。
それよりも今は、別のことが頭に浮かんで離れない。
シャーペンを置いた指先が音もなく動き出す。
ふるえているのは、夏の風のせいじゃない。
声にしてまで、伝えたいものなんてなかった。
だって話すのは面倒で億劫だったから。
だけど、今。
教科書を読むときみたいに口が勝手に息を吸い込む。
静寂が壊れる瞬間。
「ん?」
指が見慣れた背中を突いていた。
振り向いた彼の顔。
頭の中を巡る言葉を吐き出さなきゃ、いつまでも静寂はおとずれない。
「あ、りがと」
そうして、私は暑いくらいの教室で、また静かに雪を降らせた。