沙耶香 9
 雨上がりの風を受けながら沙耶香は港に戻る船を見ていた。



――この町を、一緒に捨てよう――



 震える手でこの身体を抱きしめ、かすれる声でそう言った信次。

 嬉しかった。信次の真っ直ぐな気持ちと、温かなぬくもりが嬉しかった。

 だけど、だけどその想いに応えることは出来ない。

 くしゃっと髪をなでられる。大きくて包み込むようなその手を沙耶香はよく知っていた。


「よう、沙耶香。髪、切ったのか?」


 何事もなかったように、平然と声をかけてきたのは秀一だった。沙耶香はゆっくりと顔を上げ、秀一を見上げる。


 秀一と会うのはあの日以来だ。

 食事に連れて行ってやると乗せられた車の中で、秀一は嫌がる沙耶香を抱いた。

 最初から強引な人だと知っていた。いつだって沙耶香の気持ちなどお構いなしで、無理やり恥ずかしいことをさせられたこともある。


 だけどそれでも、付き合ってきたのは、秀一が自分を必要としてくれていると信じていたから。

 けれど、あの夜、激しく身体を求めながらも、自分のことを少しも見ていない秀一に沙耶香は心を決めた。

 もう秀一にすがりつくのは終わりにしよう、と。


「沙耶香?」

 
 秀一が呟いて自分を見る。気づくと涙があふれていて、右手で秀一の腕をつかんでいた。


「何だ? おかしいぞ、お前」


 ふっと力が抜けたように笑って、秀一が沙耶香の隣に腰をおろす。


「俺と別れたいって言ったのは、お前のほうだろ?」


 秀一の隣でこくんと頷く。



そうだ

こんな汚れた関係を断ち切りたいと言ったのは私

それなのに

どうして涙なんて出るのだろう




「秀ちゃん、あのね……」


 喉の奥から、振り絞るように声を出す。


「私……子供ができたの」


 ゆっくりと視線を移し、秀一が沙耶香を見る。一瞬強い風が吹き、沙耶香の髪がふわりと揺れた。



「……なんてね。驚いた?」

「馬鹿。脅かすな」

「もうすぐ、赤ちゃん、産まれるんだもんね」


 秀一がすっと顔を背けた。秀一だってきっと、いつまでもこんな関係を続けるつもりはなかったはずだ。

 夕焼け色に染まる海。ゆらゆらと漂う波を見ながら、沙耶香が呟く。


「秀ちゃん。私のこと、一瞬でも可愛いって思ってくれたことある?」


 秀一は黙って沙耶香と同じ海を見ている。


「ほんの一瞬でも……好きって思ってくれたこと、ある?」


 沙耶香たちの後ろを、のんびりと軽トラックが走り去る。割烹着姿のおばさんたちは、おしゃべりをしながら通り過ぎる。


「馬鹿」


 ふわっと頭に触れる秀一の手。


「沙耶香は可愛いし、好きだから抱いたんだ」


 両手を伸ばして秀一の肩に触れる。ゆっくりと顔を近づけ、人目も気にせずその唇に口づける。



そういえばこんなふうに

自分からキスすることなんて

一度もなかった気がする



 いつだって、求めてくれるのを待っているだけで、自分から求めようとはしなかった。


「秀ちゃん……嘘でも、ありがとう」

 
 立ち上がって背中を向ける。秀一は海を見たまま動こうとしない。

 重い一歩を踏みしめ歩き出す。そしてその時初めて、沙耶香は自分の想いに気がついた。



私、秀ちゃんのこと

好きだった




■筆者メッセージ
もうそろそろ終盤ですね。

これまでのお話も細かい部分の加筆修正をしました。


また、よろしくお願いします。
鶉親方 ( 2020/06/19(金) 00:28 )