同じ色の空の下で - 3
沙耶香 8
「大丈夫ですよ。すぐに終わりますからね」


 手術着に着替え、横になった沙耶香に看護師が言う。麻酔の準備をされながら沙耶香はぼんやりと天井を見ていた。


 子供を作るのも簡単なら、なくしてしまうのも簡単なこと。眠っている間にすべてが終わり、またもとの身体に戻る。それだけ。


 目を閉じると、ゆらゆらと揺れる水面が目に浮かんだ。その中に浮かぶのは、見たこともない赤ん坊の姿。

 眠るように目を閉じた赤ん坊は、小さな心臓をトクトクと動かし、沙耶香の身体の中で生きている。臍の緒でつながり合い、自分だけを頼って生きている。



私はこの子に必要とされているんだ



 そう思った途端、全身が震えた。目を開けて体を起こす。


「どうしました?」


 驚いた顔の看護師に沙耶香は告げる。


「ごめんなさい。やっぱりやめます」

「え?」

「やっぱりやめます」


 そのあとは震えて声にならなかった。


 困った表情で顔を見合わせる看護師たちの姿だけが、やけにはっきりと目に映った。



 逃げるように病院を出て、駅までの道を一人で歩く。



これからどうすればいいんだろう

一人で産んで

一人で育てるなんて

絶対無理だ

けど、秀ちゃんに頼るつもりもない

こうなったのはすべて自分のせいだ



 奥さんと子供がいることを知っていて、秀一と関係を持った。

 妊娠してしまうかもしれないとわかっていたのに、拒否しなかった。

 先のことなど考えずに、何もしないで病院を出た。



全部、全部、自分で決めたこと



 途方に暮れた気持ちで駅のホームに立ち尽くす。何本かの列車をぼんやりと見送る。

 下り線に乗ればあの町に、上り線に乗れば別の町に。

 真っ直ぐ続く線路を見つめ、沙耶香は唇をぎゅっと噛む。

 駅のアナウンスが流れ、上り列車が着いた。沙耶香は開いたドアをじっと見つめる。

 やがて、そのドアが静かに閉じ、列車がまたゆっくりと動き出す。

 沙耶香は走り始める列車を見送りながら、右手でそっとお腹に触れた。何の感触もないこの身体の中に、一つの命が宿っているなんて、今でも信じられない。


「何やってるんだろ……私」


 独り言のように呟いて、呆れたように笑う。

 その時なぜか今朝聞いた、信次の言葉が頭に浮かんだ。



――沙耶香が戻ってくるまで……俺、ここで待ってるから――



 下り列車がホームに止まる。沙耶香は重い足を踏み出して、人気のない列車に乗り込んだ。



 薄暗くなった寂れたホームに沙耶香は一人降りた。

 列車から降りた途端に感じる潮の匂い。きっとこの身体にも染みついていて、それは決して消えることはないのだろう。

 ぼんやりと灯る灯りの下で立ち止まる。少し先の堤防の所に人影が見える。


「ほんと……バカなんだから」


 もしも自分が戻ってこなかったら、信次はどうしていただろう。いつまでもいつまでも、ただこの場所で、自分のことを待ち続けてくれたのだろうか。

 そんなことを思ったら、愛しい想いが全身にこみあげてきた。


「沙耶香」


 沙耶香の姿に気づいた信次が名前を呼ぶ。幼い頃からずっと聞いていた懐かしい声。信次は沙耶香の前に駆け寄って、大きく息を吐いてから呟く。


「遅ぇよ……」


 背中からぐっと抱き寄せられた。薄いブラウス越しに触れる信次の手が細かく震えているのがわかる。


「本当に……待っててくれたんだ」

「待ってるって言ったろ?」


 両手を伸ばして信次のシャツをぎゅっと握りしめる。そんな自分の手も、やっぱり震えている。

 怖くて、不安で、本当は立っているのがやっとだということに沙耶香は気づいた。


「捨てよう……一緒に」


 信次の掠れる声を耳元で聞く。


「この町を、一緒に捨てよう」


 小さくて、何にもないこの町で波の音を聞きながら育った。

 潮風に打たれ、少しずつ錆びついていくように今まで生きてきた。

 逃げたくても逃げられず、何かに憑りつかれてしまったかのように過ごしてきた。


「私を……連れ出してくれるの?」

「……うん」


 ぎこちなく抱きしめられながら、沙耶香はそっと目を閉じる。

 信次の胸は温かくて、そして自分と同じ匂いがした。





鶉親方 ( 2020/05/21(木) 16:43 )