信次 7
 海沿いの堤防に腰かけ、信次はぼんやりと海を眺めていた。



そういや、ガキの頃もこうやって

何時間も座っていたな沙耶香と一緒に



 そして沙耶香は時々、信次に手紙を見せてくれた。会ったこともないという、父親からの手紙を。


「私ね、いつかきっと、お父さんの所に行く」


 大事そうに何通もの手紙を読み返しながら、少し寂しそうに笑った沙耶香の顔を、なぜか今ごろ思い出す。


 そんな沙耶香が、妊娠していると誠から聞いたのは数日前。その途端、頭の中がぼうっとして、すぐに秀一に対する怒りが沸いてきた。

 だけど誠は信次に言った。


「兄貴には言うなよ?」

「何でだよ。相手はあいつしかいないだろ」

「沙耶香が言わない限り、オレたちが口を出すわけにはいかねぇよ」


 ぎゅっと右手を握り締める信次の前で誠が小さく息を吐く。


「オレだって腹が立ったよ。あんたの兄貴を殴ってやろうかと思った。だけどよ、あんな家族の姿を見たら、何にもできねぇじゃん」


 信次の頭に秀一と真佑、そして颯汰の笑顔が浮かぶ。


「それに沙耶香だって、そんなの望んでない。だからあんたが、沙耶香を大事にしてやれって言ったんだ」


 唇を噛みしめ、誠から顔をそむける。沙耶香の気持ちを想像し、どうしようもなく胸が痛くなる。


「しっかりしろよ、信次」


 誠の声を聞きながら考える。

 自分はそんな沙耶香に何ができるのだろうか。何をしてあげればいいのだろうか。



 夕方のチャイムが鳴る。辺りは夕陽の色に染まり、どこからか豆腐屋のラッパの音が聞こえてくる。

 だけど沙耶香はまだ帰ってこない。



――沙耶香が戻ってくるまで……俺、ここで待ってるから――



待つよ

いつまでもここで待つ

だから……だから早く帰ってこいよ、沙耶香



「信ちゃん!」


 名前を呼ばれて振り返ると、薄闇の中を真佑が大きなお腹を抱えて駆け寄って来るのが見えた。


「大変なの……お義父さんの具合が急に悪くなって……早く戻ってあげて」


 蒼ざめた真佑の顔を見て、父の容態がずいぶん悪いのだということがわかった。


「信ちゃん、早く!」


 真佑に腕を掴まれる。だけど信次はぼんやりと突っ立ったまま呟く。


「兄貴は……父さんのそばにいるの?」

「ええ」

「じゃあ、俺は行かない。俺はここにいなくちゃならないから」

「え、何を言ってるの? 今行かないと……もうお父さんに会えなくなるかもしれないのよ。それよりも大切なことがあるの?」



それよりも大切なこと



「うん」


 答えた瞬間、頬に鈍い痛みが走った。目の前で涙を流す真佑の顔を見て、自分が彼女に殴られたことに気づく。

 真佑は何か言いたげに唇を震わせていたけれど、すぐに信次に背中を向け、小走りに今来た道を戻っていった。


「ごめん……真佑さん」


 真佑の姿が信次の前から消えていく。


「父さん……ごめんな」


 薄暗い町が闇に包まれる。明るい照明も、騒がしい音もない。ただ真っ暗な中に波の音が聞こえるだけ。

 真佑が消えた道路の向こうに人影が見えた。

 朝と同じ姿の沙耶香がぽつんと立っていた。




鶉親方 ( 2020/05/16(土) 21:29 )