信次 6
 いつも以上に乱暴に引き戸が開き、どかどかと足音が近づいてくる。やがて襖がすっと開くとどことなく不機嫌そうな顔つきの誠が立っていた。


「帰るぞ」


 寝ころんでいた畳から体を起こし、面倒くさそうに信次は誠のことを見た。


「……何だよ、急に」

「家、教えろよ。お前の兄貴に会わせろ」


 信次の心臓がぴくんと反応した。思わず握った右手に汗がじんわりと滲む。


「ほら、さっさと支度しろ。帰るぞ」


 支度と言っても荷物なんてなかった。何も持たずに家を飛び出し、そのままこの鳴瀬家に居候していたから。



それにしても

こいつは何を考えてんだ



 今朝、行き先も言わずに出かけたと思ったら、戻って来るなり帰れと言う。



しかも兄貴に会わせろなんて



「何か……あったか?」


 信次の頭に浮かぶのは沙耶香の顔。もうあんな女の心配はしないって決めたのにだ。

 だけど、誠は何も答えず、さっさと家を出て行く。仕方なく信次も立ち上がると、誠の祖母にお世話になりましたと挨拶し、誠の後に続いた。




 空は茜色に染まっていた。海は穏やかに凪いで潮の匂いが風に流れる。


「もしかして……今日、沙耶香と一緒だった?」


 背中を向けて歩いている誠に信次が呟く。朝からなんとなくそんな気がしてた。



「あぁ、一緒だったよ」



やっぱり



 けれど信次には、悔しさも羨ましさも沸いてこなかった。というより、そんな気持ちを全部、無意識のうちに閉じ込めてしまったのかもしれない。



どんなに沙耶香のことを想っても

どうにもならないことはわかっていた



「信ちゃん?」


 不意に声をかけられて立ち止った。ゆっくりと振り返ると颯汰の手を引いた真佑が慌てた様子で駆け寄ってきた。


「今までどこにいたの? すごく心配したのよ?」


 信次は返事をしないまま、すっと真佑から視線を逸らす。すると、自分を見ている誠と目が合い、ものすごく気まずい気分になった。


「信ちゃん、今日ね、カレーなんだよ。一緒に食べようよ」


 颯汰の無邪気な声が聞こえる。その途端、張りつめていた糸が切れたような、ものすごい脱力感に襲われた。



なんだよ

俺はどこにも逃げられないのか



 どんなに理不尽な目に遭っても、この狭い町から逃げ出すことも出来ず、結局あの家に戻るだけなんだ。


「すぐ……帰るよ」

「うん! お母さんとカレー作って待ってるね」


 颯汰がそう言って、真佑の手を引く。真佑は何か言いたげな表情で信次を見ながら、夕暮れの道を歩いて行く。そんな二人を見送って信次は誠に呟く。


「あれ、うちの兄貴の奥さんと子供」


 誠は黙って遠くを見ていた。信次もその視線の先を追いかける。そしてそこに見慣れた姿を見つけ、思わずを上げそうになる。



兄貴……



 あの日、自分が殴りつけた兄が真佑たちと出会い、立ち止まって何か話している。


「で、あれがあんたの兄貴?」


 誠の声に小さく頷く。今さらながら、足がガクガクと情けなく震えている。


 信次の隣で誠はじっと秀一たちを見ていた。そんな誠の横顔と秀一たちの姿を信次は交互に見比べる。

 やがて、秀一と会話をした真佑が静かに微笑んだ。


――私の所に戻って来るって、信じているから――


 あの日、そう言った真佑の言葉を思い出す。



あんな理不尽なことをされても、すべて許し、笑っていられるのか?



 信次には真佑の気持ちがわからない。

 真佑の笑顔を見て、秀一も少し笑った。こんな穏やかな兄の顔を見るのは、久しぶりのような気がする。

 秀一の手がすっと伸びて、颯汰の頭を撫でた。あまり優しくされたことのない父の前で顔を強ばらせていた颯汰が嬉しそうな笑顔になる。

 信次の知らない家族の表情。今まで自分が口出ししてきたことが、馬鹿みたいに思えた。

 隣に立つ誠を見た。ぎゅっと唇を噛みしめ、何かに耐えているような顔で誠は秀一たちの姿を見つめている。



 三人の並んだ影が遠ざかる。誠は動こうとしなかった。もしかして秀一に掴みかかるのではないかと思ったけれど、そんなことはしなかった。


「信次ぃ」


 誠の声に顔を上げる。


「大事にしてやれよ。沙耶香のこと」


 秀一たちに背中を向け、誠が呟く。


「お前が大事にしてやれ。な? 信次」


 茜色の空の下、誠の向こうに凪いだ海が見えた。




鶉親方 ( 2020/04/26(日) 22:21 )