信次 3
「俺ら、これから部活だから。信次、あと頼むなぁ?」


 そう言って笑いながら教室を出て行く、男子生徒の背中を信次は黙って見送る。

 外は朝から雨が降っていて、サッカー部の練習がないことくらい、帰宅部の信次も解っている。

 窓際の机の上に広げられたのは、明日までに書き上げなくてはならない、学校新聞の原稿用紙。

 誰もやり手のない新聞委員なんてやらされて、しかも仕事を全部押し付けられる始末。一体何をしているのだろうと、信次は思う。

 そしてすべて言いなりになっているだけの自分に、つくづく嫌気が差す。

 シャーペンの発するカチカチと鳴る音が誰もいない教室に響く。

 その時、いきなり引き戸が開き、教室に誰かが入ってきた。


「あ・・・」


 小さく呟いたのは、沙耶香だった。


「お弁当箱忘れちゃって」


 言い訳するように、そんなことを言いながら、沙耶香は自分の机から弁当箱を取り出した。

 信次はすっと視線を逸らし、机の上の原稿に戻した。

 するとそんな信次の目の前に沙耶香がやってきて言った。


「何やってるの?」


 机の上を覗き込まれ、思わず信次は散らかった用紙を隠すように集めた。


「なんだっていいだろ」


 ぶっきらぼうにそう言うと、沙耶香が顔をしかめた。



何だよ、俺なんかに用はないだろ?

さっさと帰れよ





「信」


 沙耶香が昔みたいに呼んだ。たったそれだけのことなのに、なぜだか心臓が音を立てた。


「あんたさ、何にも知らないよね?」

「・・・なにが?」

「知らないなら、いいんだ」


 信次を見下ろすように、ふっと笑う沙耶香。机の上に触れる指先は思ったよりも細くて長かった。





 真っ黒で、ひょろひょろして、男の子みたいだった沙耶香がこんなに女らしくなってしまった。



それは、たぶん、きっと



「・・・知ってるよ」


 立ち去ろうと背中を向けた沙耶香に、信次が呟いた。


「俺・・・見たから」


 沙耶香がゆっくりと振り返る。その視線の先に自分がいることが、なんとなく快感に思え、信次は沙耶香に笑い返した。



 兄の秀一の様子がおかしいことに気づいたのは、もうだいぶ前だ。

 どこかで昼間から呑んだくれているのか、それとも浮気でもしているのか。

 ある日、信次はこっそりと秀一の後をつけてみた。


 もちろん、ばれたら殺されかねないから、絶対見つからないよう慎重に。


 家を出るとすぐに、秀一は携帯で誰かを呼び出した。


 自分の船が泊まる漁港の前を通り過ぎ、慣れた足取りで荒れた草むらを歩く。


 その先には寂れた小屋と海があるだけで、誰も近寄ることのない場所。



こんなとこに、何のために?



 信次の胸は密かに高ぶっていた。あの兄の秘密を盗み見ながら、優越感に浸っていたのだ。


 だけど次の瞬間、信次は頭をガツンと殴られたような気分になった。


 そこに現れた一人の少女が、さりげなく秀一の隣に並ぶ。二人は迷うことなく、その先にある壊れそうな小屋の中へ消えていった。



「見たって、何を?」


 もう一度、信次の前に立つ沙耶香の顔は、どことなく青ざめていた。



ざまあみろ

もっとビビッて焦ればいいんだ



 信次は机の上の荷物を乱暴に鞄の中に押し込んでから言う。


「お前が兄貴とあの小屋の中でしてたこと」


 勝ち誇ったように言いながら、全身に嫌な汗が流れるのを感じていた。



あの日と同じだ



 壁に張り付き、恐る恐る窓の中を覗き込んだ。

 見えたのは、沙耶香の細い体に覆い被さる秀一の背中。

 
 あの日もこんなふうに、胸が締め付けられるように痛かった。



「そう・・・なんだ」


 沙耶香が信次から目を逸らし呟く。そしてその口元をふっと緩ませる。

 何もかもを諦め、捨ててしまったような笑顔。


「言いふらしたかったら言いふらせば? 私は別に構わないから」


 そして自分の鞄を肩にかけると、もう一度信次を見て笑う。



馬鹿なやつ

あんなことされて

こんなふうに笑うなんて

沙耶香はどこまでも馬鹿だ




「お前さ・・・義姉さんの、奥さんの気持ち、考えたことあるのか?」


 沙耶香は黙って信次を見ている。


「少しは人の気持ちも考えろよ!」


 意味もなく鞄を机に叩きつけ、沙耶香を押しやるように教室を出た。


 どうしようもないほどイライラして、何もかもぶち壊してしまいたい気分だった。



鶉親方 ( 2020/03/08(日) 22:56 )