誠 4
「久しぶりだね、誠くん」
目の前に立つ柚菜が笑顔を見せる。その腕の中には生まれたばかりの赤ん坊の姿。
「私ね、赤ちゃん、産んだの」
「え……」
「私と、誠くんの子供だよ?」
霧のようにぼんやりとしたミルク色の視界の中、誠は柚菜の声を聞く。
「ねぇ、よく見てよ。可愛いでしょう? 誠くんの子供なんだよ?」
柚菜がそう言って、両腕を誠の前に差し出す。
ウソだ
ウソだ
子供なんて生まれるはずない
だって言ったんじゃないか
赤ちゃん、堕ろしたって……
突然、目の前で何かが弾けた。ミルク色の視界が真っ赤な血の色に染まっていく。
柚菜の手の中の赤ん坊がどろりと溶けて、誠の足元に落ちた。
がばっと布団の上に起き上がる。遠くで汽笛の音がする。
「……夢か?」
掛布団を握り締める手が震えている。全身に嫌な汗もかいていた。
「ふっざけんなよ……」
誰にでもなく呟いて、誠は布団を蹴るように立ち上がる。
窓の外では空がうっすらと白み始めていた。
田舎の生活は夜が早くて朝も早い。
何艘かの漁船が港を出て行くのが見え、人々はもう活動を始めている。
なんとなく目覚めてしまった誠は家を抜け出し、雨上がりの道を歩き出した。
あんな夢を見て、再び眠れそうもないし、眠りたくもなかった。
だけど、どうしてか、最近見るのは柚菜の出てくる夢ばかり。
後悔してんのか
柚菜にしたこと
後悔しているから
あんな夢を見るのか
ふと視線を移せば、防波堤の上に人影が見えた。そこは誠が初めてこの町に来た日、沙耶香と出会った場所だった。
「なーにやってんだ? こんなとこで」
誠が声をかけると、防波堤の端に座り込んでいた沙耶香が顔を上げて微笑んだ。
けれど、その髪も服もぐっしょりと濡れていて、笑顔もどこかぎこちなかった。
「……もしかして一晩中、ここにいたとか?」
昨夜はひどい雨が降っていたはずだ。
「ううん。いろんな所ぶらぶらしてて……さっきここに着いた」
「どうして……」
そこまで言いかけ、誠はこの前見た沙耶香の涙を思い出した。
深い理由があるんだろうな
それ以上は聞かず、誠は沙耶香の隣に腰かけた。そしてTシャツの上に羽織っていたパーカーを脱いで、沙耶香に押し付ける。
「これ着てろよ。体、冷えるだろ?」
沙耶香はそれを受け取って、くすっと笑う。
「慣れてるんだね」
「なにが?」
「女の子に優しくすること」
「なんだそれ」
「……ありがとう」
小柄な体には大きすぎる上着を羽織った沙耶香が誠に言った。
この日の空は珍しく晴れていた。太陽が昇るにつれ、海の色が深みを増してゆく。
「この前の……」
防波堤で、そんな光景をぼんやり眺めながら誠の隣で沙耶香がぽつりと呟いた。
「この前の霊の話だけどさ」
振り向いた誠に沙耶香がいたずらっぽく笑いかける。
「なんで死んでも会えないんだよって、言ったよね?」
「あぁ」
初めて会った日に聞いた話。言い伝えだか何だか知らないけど、誠にとってはあんまり興味のない話だった。
「あれね、会えるはずないの。だって、男は死んではいなかったんだから」
「はぁ?」
呆れ顔の誠の前で沙耶香が続ける。
「実はね。遭難して死んだと思われてた男はどこかの浜に打ち上げられて、そこで看病してくれた女の人を好きになっちゃって、その人と結婚しちゃったの」
「なんか……それ作ってない?」
沙耶香が無邪気に笑う。その笑顔は、いつもと変わりないようにも思えた。
「だからね、会えるはずはないんだよ。死んでからそれを知った女は、成仏できなくなっちゃって、ずっとこの海に漂ってるの」
――港の女は一途なんよ――
祖母の言葉を思い出した。
死んでもまだ
一途に男を愛するってことか
ある意味、怖いかもな
「オレだったら……」
少し考えて誠が口を開く。
「こんな所で彷徨ってないで、その浮気男の所へ行く。んでそいつを呪い殺す」
「あはは」
沙耶香が声を立てて笑った。誠はそんな笑顔を見つめる。
その時、遠くから沙耶香を呼ぶ声が聞こえた。
「沙耶香っ! 捜したんだぞ!」
肩で息をしながら駆け寄ってきた信次の体も沙耶香と同じように濡れていた。
「家に行ってもいないし……一晩中、捜したんだからな!」
沙耶香はそんな信次を無視するように上着を脱ぐと、それを誠に差し出した。
「ありがと。誠くん」
「おい、聞いてんのか! お前、何考えてんだよ!」
「うるさいな。信には関係ないでしょ」
それだけ言って、沙耶香はすっと立ち上がる。
「帰る」
そして、呆然と立ち尽す信次を残し、振り返らずに歩いて行った。
「いいのか? 送ってやらなくて」
崩れるようにその場に座り込んでしまった信次に誠が問いかけた。沙耶香の姿が防波堤の上から見えなくなっていく。
「……送りたかったら、あんたが送ってやれよ。俺はもう、あんな女知らね」
信次が大きく息を吐き、誠から顔を背けた。
「もう絶対……心配なんか、してやらねぇ」
掠れた声でそう言った信次の横顔に朝の光が差す。誠はぼんやりと、それきり黙り込んでしまった信次のそばに立っていた。
二人の前を沖へ出て行く漁船が、白い波を立てながら通り過ぎた。