沙耶香 1
 海沿いに建つ壊れかけたこの古い小屋は、強風に煽られて今にも吹き飛ばされそうだ。

 ガタガタと音を立てる錆びついたトタン屋根。外から入り込む隙間風は辛気臭い潮の匂いを運んでくる。

 そんな匂いを嗅ぎながら、掛橋 沙耶香は自分の上で激しく動く男越しの曇ったガラスを見つめていた。


「くっ……」


 短い呻き声と共にのしかかる男の体重を受け止める。

 汗ばんだその背中にほんの少しだけ爪の先を立てる。


「今日、信次に会ったか?」


 行為を終えると、冴嶋 秀一はいつものように背中を向け、何事もなかったかのように服を身に着ける。


 海育ちの漁師らしい、日に焼けた逞しい腕がシャツの中に隠されていく。


「会ったよ。同じクラスだもん」

「あいつ、気づいてる。俺たちのこと」



だからどうしろと言うのだろうか?

もう会わないとでも言うのだろうか?



 秀一はそれ以上は何も言わず、上着を羽織り、扉を開ける。ねっとりとした潮風が吹き込んで、沙耶香のむき出しの肌を舐めまわすように刺激する。


「……秀ちゃん」

「なんだ?」


 煩わしそうに振り返る秀一に呟く。


「なんでもない」


 秀一は何も言わずに小屋を出て行く。沙耶香は黙って、その背中を見送る。


 人の予定などお構いなしに、自分の気が向いた時だけ誘って、この小屋で身体を求めてくる秀一。

 何度も何度も。奥さんに内緒で。


 勝手だと思うし。ひどいとも思う。だけどそれを拒否しない自身もひどい女だと沙耶香はいつも思っていた。


 好きとか、愛してるとか、そんな感情はたぶんない。

 ただ、身体と身体が繋がりあったほんの一瞬だけ、秀一に求められていることを感じ、幸せな気持ちになれる。



ほんの一瞬でいい



 沙耶香は誰かに必要とされたかった。



 重たい体を起こし、手を伸ばして脱ぎ捨てられた制服を引き寄せる。

 体の中から、何かがどろりと溢れる感覚。


 秀一は避妊を嫌がる。このまま続けたら、妊娠してしまうかもしれないのに。


 もしそうなったら、秀一はどう言うだろう。金を渡して堕ろして来いとでも言うだけか。


 馬鹿らしくなって笑いが漏れた。下着と服を身に着け、外へ出る。


 体が揺さぶられるほどの強風と、鉛色の空と海。幼い頃から見慣れた景色に嫌気が差す。

 波の音を聞きながら、沙耶香は海沿いの道を歩いた。

 このまま海に沈んで、消えてしまおうか。出来もしないのにそんなことを考えて、また一人でおかしくなった時、防波堤の上に人影を見た。



 荒れた海をじっと見ているのは、沙耶香と同じく高校生くらいの男の子だった。だけどその顔に見覚えはない。

 野良猫の顔まで見分けられるほどの狭くて閉鎖的なこの町で、知らない顔なんているはずがないのに。


「危ないよ、そこ」


 沙耶香は男に近寄り、思わず声をかけていた。そうしないと今にもその影が、仄暗い海の底に引きこまれてしまいそうだったから。

 男はゆっくりと振り向き、沙耶香を見た。

 茶色く染めた長めの前髪。背が高くてすらりとした細身の体は、やはりこの町では見かけない。


「そこに立ってると、女の人の霊に引き込まれるの」

「女の霊?」


 男が馬鹿にしたようにふっと笑う。けれど沙耶香は続けた。


「昔、漁に出た漁船がこの沖で転覆してね。恋人を亡くした彼女が後を追うように、お腹の子供と一緒に、ここから海に飛び込んだの」


 話しながら男の顔を見る。男はどうでもいいような表情で、けれど目を逸らすことなく、沙耶香のことを見つめている。


「だけどね、彼女は海の底でも愛する人には会えなくて……結局その霊は、いつまでもこの場所で彷徨ってるわけ」


 生暖かい風が吹いた。沙耶香はなびく髪を右手で押さえる。切ろう切ろうと思いつつ、いつの間にか肩まで伸びてしまった鬱陶しい髪。


「それ、本当にあった話?」

「さあ? 知らないけど」

「なんで死んでも会えないんだよ? 死んで恋人と会えて、めでたしめでたしっていうのが普通じゃねぇの?」

「そうかもね」

「くだらない」


 男はもう一度笑うと、足元に置いてあったスポーツバッグを肩にかけた。


「あなた誰?」


 思わずつぶやいた沙耶香の前で、男は右手を真っすぐ伸ばし、少し先にある集落を指さした。


「あそこ。鳴瀬っていうばあちゃんち、知ってる?」


 もちろん知っていた。沙耶香が物心ついた頃から一人で住んでいる、気さくなおばあさんだ。


「そこの孫。今日からばあちゃんちで暮らすことになった」

「孫?」

「そう。鳴瀬誠。東京から来た。そっちは?」


 沙耶香は同じように指を向ける。海にせり出すような山の途中に沙耶香の住む家がある。


「私は掛橋沙耶香。そこの坂の上に住んでる」


 その男、誠は適当に頷いてからもう一度海に視線を移した。強い海風が彼の柔らかそうな髪を揺らす。

 どんよりとした空を海鳥たちが飛び交っている。


「なんで……こんな所にいるんだろうな。オレ」


 独り言のように呟いたその言葉が沙耶香の胸をちくりと刺す。



なんで、こんな所にいるんだろう……私



 誠の隣に立って海を見た。



くすんだ色の汚い風景

大嫌いな生まれ育った町

何度も出て行こうとしたのに

やっぱり今もここにいる

もがくように苦しく息を続けながら

私をこんなに縛り付けているのは

一体何なんだろう




■筆者メッセージ
とりあえず、4期で一作品いってみようと思います。

よろしくどうぞです。
鶉親方 ( 2020/02/13(木) 23:52 )