45話 深淵
健人は美波の肩に頭を乗せ、息を吸い込んだ。
大切だから
愛しているから
美波をこの重みから解放してやりたい
これが、最後だ
健人は短く息を吐いた。
「オレさ、親父もお袋も好きだったんだよね。家に帰ればお袋がいて、毎日手作りのお菓子なんか作ってくれててさ? 親父は忙しい人だったけど、休みの日は一緒にキャッチボールとか。恵まれてた。で、それが当たり前だと思ってた。そのうち親父の帰りが遅くなるようになって、お袋と顔を合わせるとケンカばっかり。すげぇ息苦しかったし、逃げたかった」
美波は健人の言葉を静かに聞いた。
全部、吐き出して
そう祈りを込める。
「親父に女がいるってことはガキながらもわかってた。お袋が苦しんでたことも。・・・だからさ、オレが壊したんだ。あの家を。オレなんだよ、家族をバラバラにしたのは。面白かったよなぁ・・・親父が女のために買ったマンションの場所、わざとお袋の前に落として。乗り込んでいくお袋を追って、罵り合うのをオレは笑って見てた。どうなるんだろうって、ワクワクしながら見てた」
健人の声は別人みたいだった。
くすくすと笑う声も、ゾクリとするほど冷たい。
美波は黙って頷いた。
「でも、何もなかった。・・・酒に溺れるお袋を見てオレはまた一人で笑ってたんだよ。人間が堕ちていく様って、すげぇ面白いの。そのうち男ができて、家に連れ込んで。オレの前でしてんだよ? 猿かよ、あいつらって思ったよ。早く消えてくんないかなぁって。だから、オレは毎日家にいた。そしたらオレの存在がウザくなったんだろうな。アッサリ二人で消えてくれたよ。自分が望んだことがこうもうまく行くと可笑しくて笑いが止まんないの。・・・ま、中学時代はたっぷり楽しませてもらったけどね? あいつらの遺伝子のおかげで女は腐る程寄ってくるし、相手してやれば小遣いもくれるし、美味しい思いはすげぇした。けど・・・・・・」
健人の声色が変わる。
思わず美波はゴクリと息を飲んだ。
「楽しくねぇんだ。全然、笑えねぇんだ。気がついたら世界がモノクロに見えて、音が聞こえなくなっちゃってたんだ。罰が当たったんだなって思ったよ。そしたら急に怖くなってさ。オレの周りから女が消えて、遊び仲間が消えて。あぁ、一人なんだって思って。家の中は独りきり。聞こえるのは時計の音だけ」
美波はそっと健人の体を抱きしめる。
健人の体がビクッと震えた。
「色の無いの世界。軽蔑の目。好奇の視線。無音の世界。荒れ果てた家。時計の音。空っぽの、オレ・・・」
これが健人の闇
美波の頬に涙が伝う。
「消えたかったんだ・・・本当はオレ、あの時・・・一番死にたかった時・・・消えたかった・・・」
健人の声が震える。
体が震えている
吐き出して全部
受け止める覚悟は、もう、できてるから
「オレは、光なんかなくてよかったのに・・・優しさなんて、変わっていくのに。・・・美波を見つけて、すげぇ欲しいと思った。でも美波がいなくなるのはすげぇ怖い。欲しいと思ったらみんな居なくなるから・・・家族も、トモダチも、みんな。だから・・・オレは、何も欲しがっちゃいけない」
健人は小さく笑った。
そっと美波の頬に触れる。
「見つけなきゃよかった。もうすぐ終われたのに。・・・美波がいたら死ねないじゃん」
「私は、それでも生きていて欲しい・・・私を、置いていかないで。前もそう言ったよね?」
「ん・・・言った。遺して、逝けないね」
「だったら、前、見て。私を、見て」
美波の瞳から涙が零れ落ちる。
それを指で掬って困ったように笑った。
「いっこ聞いていい?」
「なに?」
「美波はなんでオレを選んだの?」
「声が聞こえた。助けて。そばにいて。居なくならないで。一緒に、生きて・・・って健人の声が」
「それで急に店辞めるなんて言い出したんだ?」
「私は、健人と生きたいから」
美波はぎゅっと健人を抱きしめた。
「私は、どうしても、健人と生きたい」
「どうしようもない女だねぇ? 美波ちゃんは」
「健人が悪いんだよ。私を、見つけて」
「そうだねぇ? オレ、もう夜の世界じゃ大悪人だろうなぁ。No.1を引退させるまで惚れさせちゃって」
「喜んでる人もいっぱいいるかもよ。私、敵多かったし」
健人は小さく息を吐いた。
「ねぇ、美波。抱いてもいい?」
「私を抱くなら、約束して。私と、生きるって」
美波は健人を見上げる。
健人はいつもの笑みを浮かべた。
「いつまでオレが必要?」
「未来永劫、だよ」
「そ? じゃ離れられないね?」
「そうだよ? 私はずっと健人のそばにいたいもん」
美波の笑みに健人は声を上げ笑う。
「もう、逃がしてやんないから覚悟しといて」
そう言って健人は美波の唇を塞いだ。
泣きたくなる程切ないキス
健人の闇は全部ちょうだい
私が守るから