19話 消せない過去、消えない傷
「またいらしてくださいね」



 ビルの1階に下りた美波は微笑みながら客を見送っていた。

 客が振り向かないのを確認し、ビルに戻ろうとした瞬間、誰かが自分を呼んだような気がして立ち止まる。



「美波?」



 灰色のスーツを身に纏った男が少し驚いた顔をして立っている。

 美波はその男を一瞥し、くるりと踵を返してビルに戻った。

 男は一緒にいた女を置き去りに、美波を追った。



「美波だよな? 俺、覚えてない?」

「・・・誰?」

「マジか!? 元カレってそんなに早く忘れる?」

「人違いじゃない?」



 美波はエレベーターのボタンを押し、じっと表示を見つめる。



「人違いなわけねぇじゃん。俺だよ、慎梧。仲田慎梧。あれ? もしかしてまだ根に持ってる?」



 男は馬鹿にしたように笑い、美波の肩に手をかけた。



「あの時はああするしかなかったんだよ。悪かったって。でもお前、ここらで有名になれたじゃん。結果オーライじゃね?」

「・・・あぁ、そう言えば、自分の彼女を平気で風俗に売りつけようとしたクズみたいな男がいたわね」



 美波は男の手をやんわりと外し、にこりと微笑む。



「それがあなた? その節はお世話になりました」

「美波・・・てめぇ」

「もういいかしら? 仕事中なの」



 エレベーターの扉が開き、美波は乗り込む。扉が閉ざされるまで、男は美波を睨み続けていた。







「くだらない男」



 美波は自嘲する。

 あんな男のために必死で生きた過去を抹殺したい。

 今さらながらに体が震える。

 消えない過去と殺された心。

 甦る恐怖と許されない男。

 全ての時間が巻き戻しされたかのような感覚に震えが止まらなかった。






 あの男、慎梧は美波がこの世界に身を投じた3年前に別れた男だった。

 慎梧とは専門学校時代に出会った。

 実家を出て上京したての美波にとって慎梧は心強い存在だった。1年程付き合って、同棲を始めた。

 1Kの家は二人が暮らすには手狭すぎ、二人でバイトを始めた。

 最も、二人は学生だったため、慎梧は夕方から深夜のコンビニで、美波はファミレスでウエイトレスのバイトだった。


「もっと広いところに住もう」

「就職したら結婚しよう」

 そんな甘い言葉に美波は完全に酔っていた。



 うまくいっていたのは同棲を始めて半年の短い期間。

 たまたま友人がバイトをしているメンパブでスタッフが足りず、臨時で慎梧がバイトすることになったのが始まりだった。

 朝帰りは当たり前。

 浮気も当たり前。

 次第に金遣いも荒くなっていく慎梧に、美波は何度も説得した。

 それが悪かったのか、次第に慎梧は家に寄り付かなくなった。




 もう別れようと決めた日。

 音信不通だった慎梧が急に帰ってきた。

 知らない男と共に現れた慎梧は、美波の目の前でその男に土下座した。

 借金の返済はもう少し待ってくれ。彼女と二人で必死で働いて返すから、と。

 意味がわからない美波にその男は風俗を勧めた。

 そういう世界があるということは何となく知っていたが、美波は目の前で無様に土下座している慎梧のために働こうなどとはどうしても思えなかった。

 ただ、今、涙を浮かべ土下座をする慎梧が、彼女である美波の体を使って借金返済をさせようとしていることだけははっきりと理解できた。



 そんな光景に美波は笑った。




 みんな、自分が一番かわいい。

 自分のためなら誰かが犠牲になっても構わないのだ。




 美波はその場で男と契約した。

 借金の全額を自分が肩代わりすることを。その代わり、仕事は自分で選ぶと。



 総額800万を2年で返済。

 とても普通の仕事では返せないことはわかっていた。けれども美波には意地があった。

 こんな男を信じた自分が悪いのだ。だから、自分の尻拭いは自分でする。



 そして美波は慎梧を家から追い出し、夜の世界に飛び込んだ。

 両親が一生懸命働いたお金で通っていた専門学校はきちんと卒業した。

 どんなことになっても、これ以上両親に無理はさせられない。



 美波は2年の約束を1年で完済させた。





鶉親方 ( 2018/09/28(金) 02:28 )