8話 新しい世界
「お、ミナミちゃん、いらっしゃい」
健人の店に入ると公志がカウンターの中からにこやかに微笑む。
「拉致ってきた」
健人は笑いながらカウンターの中に入り、視線で美波に座るよう促した。黙ってスツールに腰掛けると目の前にコースターが置かれる。
「客引きって違法じゃなかった?」
美波はようやく口を開きコートを隣のスツールに置いた。
「だから客引きじゃねぇって。ナンパだよ、ナンパ」
「最悪のバーね」
「ま、そう言うなって」
健人は上機嫌でシェイカーを取り出す。
「何飲む?」
「なんでもいい」
「りょーかい」
流れるような動作でシェイカーを振り、カクテルグラスに注ぎ入れてコースターにそっと乗せた。
「もしかしてスーツの色?」
「そ。ちょっと芸がなかった?」
くくっと笑う健人に美波も思わず小さく笑う。
「なんて名前?」
「ブルー・ムーン」
「へぇ」
美波はグラスを持ち上げてしばらく色を楽しんだ。
「キレイ」
「だろ。つーか、見てばっかないで飲めよ」
健人に促され美波はゆっくりとグラスに口をつける。
「おいし。これ、ジン?」
「そう。スッキリしてるだろ」
「うん。私、ジンの香り好きかも」
そう言うと健人は嬉しそうに微笑んで美波を見る。
「あんたも飲めば?」
「そう? んじゃ飲もうかな」
「ちゃんと私につけてよね。自腹ばっかりだったらそのうちこの店潰れるわよ?」
「不吉なこと言うなって。んじゃ、遠慮なくいただきますね、ミナミさん」
健人はくくっと笑って新しいシェイカーを手に取りシェイクした。カクテルグラスに注ぎ入れ、ちょっと持ち上げた。
美波も少しグラスを持ち上げて乾杯する。
「それは?」
「ホワイト・スパイダー。飲んでみる?」
美波は健人からグラスを受け取り、少し口に含んだ。
「ガム?」
美波の感想に健人は盛大に吹き出した。
「すげぇ表現」
「だって」
「まぁ、クセがない分リキュールの味がモロだけどな」
「なんかカクテルって難しい。美味しいけど」
「そりゃどーも」
健人はちょっと笑って奥のボックス席に視線を移した。どうやら女性客が健人を呼んでいるらしい。
「行けば?」
「うん。ちょっと行ってくる。公志に何か適当に作ってもらえよ?」
健人は一息にカクテルを飲み干し、公志に何か告げ、手を洗いボックス席へと移動していった。
「ミナミちゃん、次何にする?」
公志に問われて美波は首を傾げる。
「次って言われてもカクテルなんてそんなに知らない」
「そっか。じゃあ好み教えてよ? ジンベースがいいとか、甘いやつがいいとかさ」
「甘すぎるのはイヤかな。でも、さっきあいつが飲んでたガムみたいなのはちょっとイヤ」
「OK。ちょっと待ってね」
公志は微笑んでからシェイカーに材料を入れる。
「ちょっと待って。何で卵?」
美波は驚いて思わず身を乗り出した。公志はにこりと微笑んできれいに卵黄と卵白を分け、卵白だけをシェイカーに入れた。
「まぁ、見ててよ。なかなか美味しいからさ」
本当だろうかと疑わしい目でじっと手元を見ている美波に公志は優しく笑う。
「大丈夫だよ。ちゃんとしたカクテルだからさ」
そう言ってしっかりとシェイクした中身をシャンパングラスに注ぎ、カットしたパイナップルを縁に飾るとコースターに乗せた。
「ミリオン・ダラー。聞いたことない?」
「知らない」
「飲んでみてよ。きっと気に入ると思うよ」
美波の動きを公志は相変わらずにこやかに微笑んで待っている。
恐る恐る口に運び、ちょっと驚いた顔をした。
「美味しい。卵なのに」
「でしょ。ちょっとクリーミーだと思わない?」
「うん。ビックリ。あ、飲んでいいよ?」
「ありがとう。ご馳走になります」
公志はさっき分けた卵黄をシェイカーに入れた。
「えぇ!?」
美波はまたもや驚いて身を乗り出す。想像通りの反応が面白かったのか、公志はちょっと笑う。
シェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぎ入れてソーダで満たす。
ステアしたあとレモンを縁に飾って、にこりと微笑む。
「それ、美味しいの?」
「もちろん。飲んでみる?」
「いや、いい」
「なんでー?」
「なんか、ちょっと」
「見た目よりずっと美味しいけどな」
「そう・・・じゃあ」
軽くグラスを合わせ、公志が口に含むのをじっと見る。
堪えきれなくなった公志は笑いながら美波にグラスを手渡した。
「飲んでみてよ」
公志の笑顔に負けて渋々カクテルを口に含む。
「あれ・・・?」
「意外でしょ?」
「うん・・・すごい」
「さっき卵割ったでしょ。もったいないからね」
「へぇ・・・」
美波が感心していると突然肩を組まれ驚いて横を見た。思ったよりも近くに健人の顔があってどきりとして顔を背けた。
「なに? 楽しそうじゃん」
「オーダー?」
「いや。抜けてきた。公志、チェーンジ」
「はいはい。じゃあミナミちゃん、ゆっくりしてね」
公志は使ったシェイカーをシンクに入れてカウンターを出て行った。
「何飲んでんの?」
「ミリオン・ダラーだって。カクテルって卵も使うのね」
「うん。牛乳とか生クリームも使うよ」
「へぇ」
「次、何か作ろうか?」
「いや、もういい。そろそろ帰る」
「オレが戻ってきた途端に帰るのってヒドくない?」
「そう? じゃなんか美味しいやつ」
美波のリクエストに健人は笑う。
「オレが作れば何だって美味しいの!」
「すごい自信ね」
「店出した人間が不味いカクテル作ってどうすんのさ」
健人は笑いながらぽんと美波の頭を叩き、カウンターの中に入った。
シェイカーを振り、クラッシュアイスを詰めた変わった形のグラスに注ぎレモンを飾るとぽんとストローをさした。
「ストロー? アルコールなのに」
「そうだよ」
「何これ?」
「ジン・デイジー。初恋の味?」
「何それ」
美波はちょっと笑ってストローを吸う。
「甘酸っぱいから、初恋?」
「正解」
健人はくくっと笑ってシンクの中のシェイカーを洗う。
洗い終わったシェイカーを丁寧に拭き、顔を上げた。
「美波の家ってどこ?」
「あっち」
「どっちだよ」
「あんたに教える筋合いはないわ」
「ふうん? ま、いいけど」
美波は飲み終わったグラスを健人に押しやり、バッグを持ち上げた。
「チェックして」
「了解」
シルバーのトレイにチェックシートを乗せ、美波の前に滑らせる。
美波は支払いを済ませ、コートを羽織って店を出ると、すぐに健人が追ってくる。
「見送らなくていいってば」
「お客様だしね」
エレベーターに乗り込むと当然のように健人も乗った。
「また来いよ?」
「気が向いたらね」
「またそれかよ。オレが迎えに行かないと来ないつもりだろ」
「さあね。じゃ」
1階に着き、美波はさっさとエレベーターを降りてビルを出た。何となく振り向くと健人が微笑んで手を振った。
それを無視し歩き出す。
頬が緩んでいることに気付き、美波は苦笑した。
時計を見ると随分あの店にいたことに気付く。
今まで知らなかった世界が目の前に広がり、なぜかそれを楽しいと思えた。
それと同時にやっぱり健人は不思議な人だと思った。