7話 擬物
「ねぇ美波、聞いた? 麻衣さん、辞めたって!」
とうとうと言うべきか、やっとと言うべきか、元No.1という不名誉な称号をつけられた麻衣が店を辞めた。もしかすると、クビになったのかも知れない。
「そう」
「美波って冷めてるよね。あんなに慕ってたからもっと悲しむと思った」
店内では割と仲良くしている美月が苦笑いを浮かべる。
「冷めてるかな。・・・そうだよね。私、やっぱりどこか欠けてるのかも」
「ごめん。そんなつもりじゃなくて」
美月は申し訳なさそうに言ってドレッサーの前に座る。専属のメイクさんに化粧をされながら美波は緩く首を振る。
「やっぱ、あの噂って本当だったのかな?」
「さあ? 詮索したって仕方がないじゃない」
「ま、そうだけどさ」
「これでよかったのよ。店にとっても、麻衣さんにとってもさ」
美波はそれ以上何も言わなかった。
メイクが終わり、バッグからハンカチと名刺ケースを取り出す。
「じゃ、先に行ってるね」
美波はロッカールームを出てフロアに立つ。
また今日もここで、偽りの笑顔を浮かべ、No.1の仮面を被る。
自分を納得させ、指名を待つフロア奥のソファーに座った。
今日は金曜日。
指名は何本取れるだろうと頭の中で名刺ホルダーを捲る。
月末の金曜日は上客の企業の団体が来るはずだ。
それに、近々誕生日を迎える客もそろそろ来るだろう。
ちょうど通りかかった黒服の狭山にボックス席の予約とシャンパンを準備しておくよう告げた。
店が開店すると美波はすぐに指名が入り席に着く。
水割りを作りながら笑顔を浮かべて相槌を打つ。
今日の出だしは体に触れてくる客じゃなくてよかったとホッとした。
何年経っても、あの手の客は苦手だ。
しばらくして美波の予想通り、上客の団体が来店した。
予約席に案内すると満面の笑みで美波を迎える。
美波がこのような振る舞いができるようになったのは麻衣の指導のおかげだった。
クラブ“OZ”のオープン当初から、転落のきっかけとなったあの日までの5年もの間、麻衣はNo.1と呼ばれる地位にいた。
明るく、面倒見の良い麻衣は店の女の子達から憧られ、客からもまた好かれていた。
美波はきっと、あの日のことを一生忘れないだろう。
客ににこりと微笑みながらいつものように相槌を打った。
不況と言われるこんな時期なのに、珍しくビルの前にタクシーが1台もなく、美波は仕方なく大通りを歩いていた。
コンビニでリンの好きな缶詰をお土産に買って帰ろうと考えながら歩いているとふいに背後から声をかけられた。
「ミナミー。気が向かねぇわけ?」
振り向くとニヤニヤ笑う健人が立っていた。一瞬考える仕草をした後、美波はぽつりと呟く。
「ああ。忘れてた」
「ひでぇ。待ってたのによ」
口で言うほど傷ついていないのか、健人はくくっと笑いながら弾むように歩いてくる。
「ヒマだろ? 寄ってかない?」
「行かない」
「そ? つまんねーって顔して歩いてるけど」
「別に」
素っ気ない返事に健人は可笑しそうに笑う。
話すのも面倒になった美波は健人を無視して歩き出した。
「“OZ”のNo.1ってのは、店でもそんな感じなわけ?」
突然店の名前を出されて驚いた美波は立ち止まって振り返る。
「何で・・・知ってるの?」
「有名じゃん。クラブ“OZ”」
「そうじゃなくて、私のこと・・・」
「有名だよ。梅澤美波サン」
健人はくくっと笑って美波の腕を掴んだ。
「寄ってくだろ? 店」
健人は真っ直ぐに美波の瞳を見た。
美波には何故かその手を振り解くことも、拒否することもできなかった。