03
夜になってもまだ外は蒸し暑かった。汗をかいた姿で江籠さんに会いたくなかったけど、着替えている時間も汗を拭く時間もなかった。
首元と顔だけハンカチで拭くと、僕は教室の中へと入った。もう間もなく授業が始まるが、学校と違ってお喋りしている子はいなくて、みんな自習をしていた。
席順は決まっていないけど、ずっと塾へ通っていればなんとなく席順は決まっていくものだ。僕がいつも座っている江籠さんが見える位置の席はいつも通り空いていた。
僕は席に座るふりをしながら、江籠さんの様子を見た。彼女も周りと同じように自習をしており、消しゴムで書いた文字を消していた。
江籠さんの隣は空いている。座ろうと思えば、いつでも座れるが、空席が多いこのクラスではそれをやる勇気なんてなかった。
しかも、まして今日は汗臭いはずだ。つい時間を潰し過ぎてしまった。おかげで走って塾へ行く羽目になってしまった。
チャイムの音と同時に授業が始まりを告げた。僕は気持ちを入れ替えて授業に集中することにした。
◇
気持ちを入れ替えると決めたはずなのに、僕はさっき向田さんと喋ったことがどうしても脳裏から離れなかった。
彼女に言ってしまった言葉が、無意識のうちに頭の中で
反芻される。沼に堕ちてしまったのは、向田さんだけじゃない。
「今日も暑いね」
そんな中にあって、江籠さんの存在は泥水に咲く
蓮の花のようだった。淡いピンク色の花弁を広げ、清らかなる気品を漂わせている。
確か蓮の花は泥水が濃ければ濃いほどに、色鮮やかで大きな花を咲かせるはずだ。つまり、僕の身体が沼に堕ちれば堕ちるほどに、美しく見えるということか。
「夜になってもこれだもんね。参っちゃうよ」
「ハシケン君は、夏と冬どっちが好き?」
「うーん。でもやっぱり夏かな。冬は寒くて辛いよ。そういう江籠さんは?」
「私も夏かな。理由は一緒」
きっと天女様や御釈迦様と話したらこんな気持ちになるんだろうな。穏やかで、擦れてボロボロになった心が浄化されていく。
たかが季節の話だ。それにも関わらず、僕は江籠さんと一緒だったことに無上の喜びを感じる。
「いつ見てもかっこいい自転車だよね」
駐輪場から取り出されるロードバイク。顔に似合わずとは、このことを言うのだろう。
「ずっと欲しかったの。バイト代を貯めて買ったんだ」
そう言ってサドルを愛おしそうに撫でる江籠さん。目標を掲げ、それに向かって日々を過ごしていく。江籠さんのそういった生き方の前に、僕の生き方なんてあまりに陳腐なものだった。
なんで塾へ通うのか。将来、一流企業に行くため。なぜ行きたいのか。家族に決められたから。
僕の人生は海に浮かぶ流木のようだった。
「かっこいいな、江籠さんって」
「そんなことないって。ハシケン君もかっこいいよ」
誰も傷つけることのない江籠さんの優しい言葉。けれど、今の僕にとってはその言葉ですら小さな傷を作った。