04
いつもは早く終わらないかな、なんてぼんやりと思いながら受けていた授業。それが隣に江籠さんがいるだけで変わった。
江籠さんはやっぱり同じクラスだった。彼女はどう思ったのか分からないけど、僕は無理やり席を誘導したから、彼女はそれに従って授業を受けていた。
壁際の江籠さん。逃げ場所を塞いだおかげで、僕は難なく彼女の隣に座ることが出来た。我ながらスマート且つ、したたかな対応だったように思う。
聞き流している授業。塾講師が熱心に話しているのは、世界史だった。『ノルマンディー上陸作戦』を講義している。
世界最大級の上陸作戦――それがたまたま耳に入り、僕はハッとした。そうだ。戦いはすでに始まっている。
最高の作戦が、最高の結果をもたらす。そんなシンプルな考えが頭をよぎり、僕は気持ちがドンドン高ぶっていくのが分かった。
聞き流していた講義に集中する。そうだ。僕はこの恋を『ノルマンディー上陸作戦』と名付けよう。
作戦名が決まると、いよいよ僕の高揚感はうなぎ上りだった。隣をチラリと覗くと、江籠さんが真剣な表情で講義を聞き入っていた。まさか自分が上陸されるなんて、露ほど思っていないだろう。
不思議と、嫌われるなんてネガティブな考えは起きなかった。恐怖も感じなかった。僕は女性の胸――洋服越しとはいえ、大きな胸を揉んだ。頬とはいえ、キスをしてもらった。
それを考えると、何を怖いものがあるか。おまけに僕には、幸せを呼び込む壺がある。この壺はすごい。僕はカバン越しから壺を撫でた。
「どうでした? 初授業は」
授業が終わると、僕は江籠さんに声をかけた。もう今までのヘタレな自分ではない。
「うん、まあ普通でした。小中学生の時も塾に通っていましたし、ここも同じですね」
「そうですか。じゃあ、僕たち同い年ってことですかね。高一の」
「ああ、そうなんですね。私も高一です」
いつもならさっさと帰るのに、僕は帰りたくなかった。この時間が永遠に続けばいいと思った。
「じゃあ、もうこの後に授業はないので帰りますね」
「僕も帰ります。そうだ。お名前は? 僕は橋本です」
「江籠です。ちょっと変わった苗字ですけど」
知っている。どんな字を書くかも、僕は知っているのだ。
二人揃ってエレベーターに乗り込む。正直誰も乗って欲しくなかったけど、授業を終えたために生徒たちが何人か乗った。
「僕のことはハシケンって呼んでください。コンビニの常連客、ハシケンでもいいです」
常連というほど、毎日行っていないくせに。我ながら二枚舌だと思った。
だけど、江籠さんはそんな僕のことをクスッと笑ってくれた。
「あだ名なのに、コンビニの常連客、ハシケンって長いですよ。普通にハシケン君って呼びますね」
「あと、同い年なんで敬語、止めません?」
エレベーターが一階に降りた。早過ぎる。
「そう、ですねえ」
表情を曇らせる江籠さん。しまった。いきなりペースが早過ぎたか。
「まあ、徐々にいきましょうか。いけね、言ってる僕が敬語だった」
わざとらしかったのがいけなかったのか、江籠さんは苦笑いを浮かべた。肯定とも否定とも受け取れる。
「江籠さんはどちらで。右? 左?」
「右です」
反対方向か。僕は街灯に照らされる道路を睨んだ。さりげなく途中まで帰れると期待したのに。
「あっ、自転車なんだ」
てっきり徒歩かと思っていたら、江籠さんは駐輪場へ向かって行ってしまった。しょうがない。今日はここまでだ。
「じゃあね、江籠さん。また」
後ろ髪を引かれながらも、及第点以上の活躍だった。これ以上を望むことは酷だろう。
「うん。今日はありがとう。またね」
ようやく砕けた口調を見せた江籠さんは、そう言って颯爽と自転車に乗って行ってしまった。僕はその背中が見えなくなるまで見送り続けた。