10
いつもはサッと拭く程度の机の上も、ウエットティッシュを使って丹念に拭く。拭き残しがないことを確認すると、カバンから新聞紙に包まれた壺を取り出す。
恭しく、大層に机の上に置くと、手持ち無沙汰を感じ合掌した。すると、ノックの音が聞こえた。
「はーい」
「ご飯よ。って、何してんの?」
夕食を呼びに来た奈々未姉だった。彼女は開けた扉の前でポカンとしている。
「礼拝さ」
「怪しい宗教でも始めたの」
訝しげな表情を浮かべながら、奈々未姉は部屋の中へ入って来た。いつもなら何をしてくるのか不気味に感じる彼女も、この壺の前では小さな存在に感じた。
「まさか。でも、それに近いかな」
「何、このセンスのない壺は」
「触るな!」
無神経に触ろうとする奈々未姉の細い腕を掴んだ。いつも僕のことを殴ったり、蹴ったりしているこの骨はなんと細いことか。
「ちょっと、痛いわよ」
ほら。力を入れればこんなものだ。奈々未姉の苦痛に歪んだ顔を見れて満足した僕は、サッと手を離した。
「この壺に触らないで」
「何なのよ。一体」
手首を抑えながら僕のことをキッと睨む奈々未姉。しかし僕は恐怖心を
微塵も感じない。なぜなら、僕にはこの壺がある。
「いい? 奈々未姉。この壺には絶対に触らないで。ご利益が落ちるから」
「訳が分からないわよ。あんた、変な人に壺を買わされたんでしょ」
「はるっぴさんは変な人なんかじゃない。幸運を呼び込むこの壺のことを教えてくれた恩人だ」
「はあ?」
「ま、奈々未姉のような無神経で無慈悲で女を半分捨てたような人には、さっぱり理解出来なくて当然かな」
「あんた、あたしにケンカを売ってんの?」
手をグーの形にする奈々未姉を見て、僕はなんて憐れな人だと思った。何でも暴力で解決しようとしている悲しい人だ。
「争いは争いしか生まないんだよ、奈々未姉」
「あんたマジで頭大丈夫?」
「僕は大丈夫さ。それよりも奈々未姉こそ大丈夫? 悩み事は抱えてないかい」
大海のような心って、きっとこういうことをいうのだろう。何を言われても相手を包み込むような境涯。今僕はこの壺のおかげで、その境地にいる。
「悩み事は、これでも唯一の弟が変になってしまったことかしらね」
徐々に僕から距離を取る奈々未姉。まるで神々しき神に恐れをなしたかのようだ。
「憐れだよ。奈々未姉が憐れに思えてならない」
なぜ彼女は僕の言っていることが理解出来ないのか。不思議を通り越して、憐れに思えてならなかった。
「お母さーん。健太郎が変になっちゃったー」
叫びながら階段を下りていく奈々未姉。その足音を聞きながら、僕は
快哉をあげた。