第九章「素直な気持ち」
03
「ああ、死ぬかと思った」
 
「あんな程度で人間、死なないわよ。たぶんだけど」
 
 奈々未姉に浴槽へ沈められた僕の呼吸器官に水が入り込み、僕はしばらくまともに呼吸が出来なかった。それを見ながら笑い転げる奈々未姉を見て、僕は改めて彼女をサディスティックマシーンだと再認識せざるを得なかった。
 
「危うく世界でただ一人の弟を溺死させようとしたんだぞ。速やかなる謝罪と多額の賠償金を求める!」
 
「うるさい童貞。黙って湯船に浸かれ」
 
「……はい」
 
 もう童貞扱いをされても何も言い返す気力なんてなかった。諦めと脱力感のままに僕は湯船に浸かり直した。
 
「ねえ、まだ僕は振り返っちゃいけないの」
 
変わらず僕は白いタイルを見続けていた。背後には奈々未姉が湯船に浸かっているはずだ。
 
「当たり前でしょ。振り返ったら殺す」
 
「なんでそれなのに僕と一緒に入りたがったんだよ」
 
 湯船に唇を浸し、僕はブルブルと振動させた。
 
「お湯を飲むな変態」
 
「飲んでませんー。ブクブクさせただけですー」
 
「何かムカつく」
 
 後頭部がチョップされて、僕は再び顔面が湯船に浸かった。
 
「だから痛いって。もう。今日はやたら暴力的なんだから」
 
 生理かと思ったけど、それを言ったらまた殴られるか湯船へ沈められそうだったから、グッと飲み込んだ。お腹の中はすでに先ほど飲んだお湯でタプタプしている。
 
「あんたが悪いからでしょ」
 
「ええー。僕のせい?」
 
「そうよ。地球温暖化も、日本の経済の悪化も、昨今の外交問題も全部あんたのせい」
 
 僕にそんな影響力があるなんて。もはや奈々未姉の中で僕はずいぶんとした影響力を持っているようだ。
 
「だからあたしを大事にしなさい」
 
「はい? 今なんと仰いました?」
 
「だからあたしをもっと大事にしなさいって言ってるのよ。耳が遠くなったのね。人の話を聞けなくなったらなおさらモテないわよ」
 
「いやあ。これでも十分大事にしているかと思いますけど」
 
 むしろ逆なんじゃないかと思えてならない。奈々未姉にとって僕は世界で唯一の血の繋がった弟のはずではなかったのか。
 
「いや、違う。大事にしてるんなら変な壺なんて買わなかったはずよ」
 
 やっぱりまだあのことを根に持っているのか。あれから僕と奈々未姉の関係がギクシャクし始めたのだ。
 
「壺は関係ないよ」
 
「じゃあなんで買ったのよ」
 
 好きな子がいて、振り向いて欲しくて買ったなんてかっこ悪くて言えなかった。
 
「幸運を呼び込むって(うた)い文句だったから。幸運は来ないより、来た方がいいでしょ」
 
「そりゃそうだけど、あんたって本当にバカなのねえ」
 
 呆れたような声が聞こえたけど、僕は何も言い返さなかった。
 
「もう出る」
 
「待ちなさい」
 
「何だよ。もうのぼせちゃうって」
 
 何分入っているか分からなかったけど、頭がぼんやりとしてきた。
 
「先に出てあたしの下着を嗅ぐつもりでしょ。そうはさせないわ。あたしより先に出ちゃダメ」
 
 僕にとってそれは、死刑を延期されたに等しい言葉だった。


■筆者メッセージ
永尾まりやが卒業ですか。
意外ですし、残念でなりません。
( 2015/12/07(月) 23:50 )