第二章
03
 エリーゼのために――ベートーヴェンの曲の中でも有名たるこの曲を弾こうと、彼を見て思った。なぜ自分でもそう思ったのか分からない。ただ、無性に弾きたくなったのだ。
 曲のタイトルである『エリーゼ』は貴族の娘であった。ある日ベートーヴェンと知り合い、二人は恋に落ちる。しかし、彼は貴族でなかったため、結婚はおろか恋愛関係になることすら許されなかった。身分制度があった時代。ベートーヴェンは曲に自分の想いを託した。
 
 ピアノを弾きながら、『エリーゼ』を想像する。どんな女性なのだろうか。ベートーヴェンのどこに惹かれたのだろうか。答えのない空想に浸っていると、ふと彼のことが頭によぎった。
  
  
  
 いつも彼は私のことを見ていた。それを意識したのは中学生に上がろうかとしている時のことだ。
 いつも誰かに見られている。そんな気持ち悪さがあった。だがそれを両親に言うのは躊躇(ためら)われた。自意識過剰だと馬鹿にされたくなかったのもあるが、両親に言って大事になるのはもっと嫌だった。誰にも相談できず、恐怖と気持ち悪さを引きずっていたが、ある日彼を見つけた。
 
 今日とほとんど変わらない格好。長い黒髪と膝が擦り切れたジーンズ。体型も変わっていないように思える。
 彼はじっと私のことを見ていた。見ていたといっても、彼の目を見ることが出来ないため、憶測でしかないが明らかに見ていたはずだ。
 
 何をするわけではない。ただじっと見ているだけ。それから何年も経つが、未だ彼は何もしてこない。だから野放しにしているのだが、彼が何をしたいのか、皆目見当がつかない。
 来る日も来る日も彼はいた。私と彼との間には十分な距離があるが、子供の足では本気で走った彼に追いつかれてしまうほどの距離だ。それでも彼は何もしてこなかった。距離を縮めようともしなかった。
 あいさつをしない関係。会釈もせずに、互いに過ごしてきた。まるで彼は路上にある石ころのようだ。蹴飛ばしもしなければ、踏むこともない。ただポツンとそこにある小石。それが彼だった。



( 2013/09/26(木) 23:14 )