第一章
02
 誰もいない自宅。小一時間空けていただけなのに、空気が(よど)んでいる。私はすぐに地下室へと向かった。
 木の扉を開けると、コンクリートがうちっぱなしになった八畳の部屋。そこが自室兼アトリエとなっている。地下室ということもあり、一階よりも空気は冷えていた。買って来た食材を冷蔵庫に詰め、ワインをテーブルの上に置く。
 
 描きかけの絵画。そこにはあなたが描かれている。あなたがピアノを弾く姿。直接その姿を見たことがない私が想像で描いた絵。
 モデルとなったあなたはここにはいない。だが、私は目を閉じてもあなたの姿を思い浮かべることが出来る。
 
 一度も染めたことがないであろう黒髪。意志の強い目は、透き通っている。日本人形のような凛とした(たたず)まいを持ち合わせていながら、年相応な柔らかさ、少女から女性へと成長をしていくところも見られる。
 そう、私はあなたをずっと見続けてきた。何年も何年も。季節が何度も巡るたび、あなたは大きくなっていった。そして美しくなっていく。触れてもいない手は、どんどんと遠ざかって行ってしまうようだ。
 
 だから私はあなたの絵を描くことにした。大きくなっていくあなた。美しくなっていくあなたを残すために。カメラで撮ることが出来ないのであるならば、こうするしかない。父とは違って、売れない画家とはいえ、それなりの絵は描けるのだ。
 
 私の父も画家であった。早くに母と離婚をした父だが、画家としての才能は鬼才であり、有名な作品を何度も世に送り出した。そのたび、絶賛を受け、莫大なお金が我が家に入り込んできた。だが父はそんなお金にもまったくといっていいほど興味を示さなかった。そのお金を目当てに、様々な人が父の元を訪ねたが、すべて門前払いをした。父にとってお金とは、生活をするだけの分で十分であり、それ以上のことを望まなかった。
 そんな父が唯一大金をはたいて買ったのがこの家だ。地下室も含めた三階建ての一軒家。海を眺めることができ、両隣に家は建っていない。
 
 窓を開ければ波の音が聞こえる。穏やかな潮風は磯のにおいを運んでくれる。父はよくバルコニーでワインを飲みながら海を眺めていた。幸せそうな顔。贅沢を望まない父が唯一贅沢をしたこの家に私は今一人で住んでいる。


( 2013/09/22(日) 01:58 )